中天の船影――アスペリタス号の飛行船乗りたち
序章、翼を得た瞬間
〝いいか、よく聞け、羽虫〟
暗闇のなか、その声がこだまする。考え込むとき、迷ったときに聞こえるその声は、近くにいないにも拘らず力強く聞こえるのだ。それは一般人からすれば、父親のように導いてくれる声、あるいは教師のように諭してくれる声なのかもしれない。
けれど俺にとっては、悪事を指示する頭領の声だ。そしてそれは、揺るぎない自信と誇りを込めた声でもあった。
俺を送り出す直前、盗賊団の頭領は、こう言った。
〝飛行船ってのは、重すぎてはいけないし、軽すぎてもいけないという厄介な乗り物だ。水上船のように重くしちまえば飛ぶことはできないし、軽くしちまえば風に溺れてしまう。だからこれを造るのはほんとうに頭のいい奴しかできない仕事だ。そして、それを安全に飛ばすのも頭のいい奴にしかできない仕事だ。だからおまえは、頭のいい奴の手伝いをしてこい。飛行船を欲しがっている客がいる。そいつらのために飛行船を調達するんだ〟
俺は猿のように壁をよじ登り、開け放たれた窓に辿り着き、警備が固い巨大な建造物にやすやすと侵入する。音をたてずに扉を開け、敏捷に梁の上を渡り歩く。そして、篝火やガス灯に自分の影が映し出されないように注意しながら、足音と気配を消して目標に接近した。
目の前に見えるのは、巨大格納庫に眠る美しい飛行船だった。
美しい流線形を描くエンベロープ(浮揚ガスを充填するガス袋)は要所を特殊な金属板で補強されており、大掛かりなレシプロ推進器が前方、中央部、後方の船腹に取り付けられていた。従来の飛行船にしてはあり得ない推進器の配置。学のない俺にでも分かる。この飛行船はただものではない。だからこそ、頭領はこれを盗んで来いと手下たちに指示を出したのだ。
その先陣を仰せつかったのが俺。
この後、侵入する盗人集団が警備兵を始末して、盗んだ飛行船をすばやく上昇させることができるように、俺は飛行船を地上につなぎとめる係留索を一つ残らず細工する。両舷に合わせて百本近くの係留索が繋がれているが、単純に切込みを入れるか、手間はかかるが結び目が解けやすくなるように細工すればいい。
暗がりと資材の山の陰で、俺は、誰にも気づかれないように片舷の係留索を細工し終える。
あと半分。
係留索を半分ほど細工すれば、時間通りに仲間たちが来るはずだった。
だが、残りの作業に取り掛かったものの、仲間たちは来なかった。
一向に気配が感じられない。足音すら聞こえない。
何かがおかしいと思って作業の手を止め、俺は立ち上がる。ひどい胸騒ぎがする。不安を抑えられない。混乱を鎮めることができない。どうして仲間たちは来ないのか。いつもなら、もう姿を見せているはずなのに。
動揺して、俺は作業を中断して、外の様子を確認しようとする。
裏口の小さな扉を開け、俺は格納庫の外に出た。異変にはすぐに気づいた。外は潜入したときよりも騒がしい。すべての建物に兵隊が集合しているようだ。靴音高らかに走る兵隊は武装を整えている。出入口をすべて固めながら内部を調査する様子はただ事ではなかった。
心臓がどくん、と鳴った。
盗人を探している。仲間は見つかり、彼らは残党を探しているんだ。
逃げなくては!
冷静に動くべきだったのに、俺は冷静さを欠き、すぐさま駆け出す。だからすぐに見つかった。背後から怒号をあげて兵隊が追いかけてくる。路地に入り、隠れる場所を探そうとするも、あちこちから追手が迫ってくる。道がどんどん塞がれていく。逃げられない! 手近な壁に飛びつきよじ登ろうとするが、大人が跳躍する。襟首をつかまれ、俺は乱暴に地面にたたきつけられた。
そこで、意識は途切れる。
――次に目が覚めたのは、檻のなかだった。
移送車や牢屋のなかで、怒声を浴びせられ、殴られ続け、冷や水をぶっかけられた。
飛行船盗みが重罪の国だったのだろう。あるいは飛行船を宝物のように大切にする国だったのか。とにかく、接する人間はみんな、俺のことを乱暴に扱った。
それもそのはず、船乗りにせよ飛行船乗りにせよ、自分の乗り物を奪われることは何よりも許せない犯罪行為。船は安物ではない。船を盗まれてしまえば生業を失い、船乗りや飛行船乗りは路頭に迷う。単純に乗り物を奪おうとしたのではない。俺は、彼らの生業を潰し、飛行船乗りたちの人生を狂わせようとしたのだ。
だからこそ、彼らは殺気立っていた。
きっと、いますぐにでも処刑台に送り込みたかったのだろうが、俺が一〇代という幼さだったから、極刑には慎重な意見が多かったのかもしれない。
だが、それも時間の問題だろう。いずれ何らかの形で処罰は下されるはずだ。
厳しい処罰を期待する看守たちは、鉄格子の向こうから俺を見下している。
「飛行船の盗人は久しぶりだな。ガキはなかなか処刑しづらいが、まあ、年齢を証明できるものがないから、簡単に処刑できるかもしれないな」
「いい見世物になるな。泣きわめいて脱糞して、小便を漏らすんだろうな」
「ガキなら石打刑になるかもな。まあ、ほかの若い盗人も当たり所が悪かったんだろうな。ぴくぴく震えながら死んじまったらしいぞ」
「見物できなかったのが残念だよ。まあこのちっこいネズミの処刑は見物できるかもしれないな」
鉄格子の向こう側から、大人たちが、「おぅい、怖いか、ドブネズミ?」と呼びかけてきた。薄汚い恰好で冷たい床に横たわる俺は、連中から見ればドブネズミに見えたのだろう。
冷たい笑い声をあげる大人たちに対して、俺は苛立ち、思わず叫んだ。
俺はドブネズミではない。
「俺の名前は羽虫だ!」
かつてその名を与えてくれた男の姿を思い出しながら、俺は熱いものを吐き出した。
泥水のなかに倒れていた俺の傍に膝をつき、フードの下から、小さな笑みを浮かべながら、あの男は名前を与えてくれたのだ。
「羽虫はどんな生き物よりも、しぶとくて、頑丈で、最後の最後まで飛び続けるのさ! 羽虫は小さすぎて、簡単には殺せないだろう。羽音がうるさくて嫌な顔をしても、なんにもできない人間を俺は見下せるのさ!」
俺の口からほとばしるのは、かつて頭領に言われた言葉だ。
盗賊団に入る前まで、俺は貧民街で盗みを働きながら生き延びてきた。盗みを働いてでも必死に生きる姿を見て、俺を拾った頭領はその名を与えた。羽虫と。虫けらではなく、誰にも邪魔されずに最後まで飛び続ける虫とおまえの生きざまは同じだと、頭領は語った。その言葉は蔑称のはずなのに、あの男が口にした途端、賛辞に変わっていた。
だから、この名前は恥ずべき過去ではなく、俺の生き様を体現した字だ。
俺の誇りそのものが、虫という文字に表れている。
「……このクソガキ、反省できないみたいだな。もういい。俺たちでやろうぜ」
殺気立った看守たちが、扉を開けて、警棒を手にして牢屋に入ってきた。気分次第で囚人をいたぶれるのが彼らの仕事の利点だ。きっと気分が晴れるまで殴り続けるのだろう。一人なら何とか耐えられるが、三人も牢屋に入ってきたから、ああ、きっと死ぬなと俺は冷静に確信する。あいつらが一度に殴ってくれば、骨も内臓もぐちゃぐちゃになって、俺は醜い肉片に変わり果てているだろう。
だったら最後の最後まで、抗ってやる。
蠅や蚊はいずれ叩き潰されるが、嫌な羽音は人間の耳朶に残り続ける。それと同じだ。なかなか忘れられない不快感を、こいつらに与えてやるんだ。
――死を覚悟して身構えた時だった。
冷たい空間に、凛とした声が響き渡った。
「――お待ちなさい。何をしようとしているのですか?」
俺にとってはか細い印象しかない普通の声音だが、どうやら三人の看守たちにとっては特別な響きを持つ声音らしい。
警棒を構えて今にも襲い掛かってきそうな気配を発していた看守たちは、ぎくりと振り返り、鉄格子の向こう側に立つ人物の姿を捉えて、驚愕の叫び声をあげる。
「翡翠様? なにゆえ、このような場所にお越しになったのですか?」
狼狽したように看守たちは体を震わせる。
俺は大人たちの足の隙間から、向こう側に視線を向けた。そこにいたのは、俺と同い年くらいの小柄な女子の姿だった。従者と思われる老齢の男女を左右に従わせている。豊かなフリルで飾られたドレス姿の女子だ。
俺は思わず首を傾げる。
この国のお嬢様は囚人を見物するために牢屋にやってくるのだろうか。
「そこの者の身元引受人が決まりました。彼をこちらに渡しなさい」
「まさか。このような薄汚いガキを……」
「祖父の恩赦状はすでに看守長に提出済みです。あと、皆様が囚人をいたずらにいたぶっていることは元老院に報告済みですので、身の回りの整理をしておいたほうがいいですよ。看守長は真っ青になって執務室で震えていました。皆様であたたかい飲み物でも持って行ってはいかがですか?」
平和な場所で育ったお嬢様とは思えない、とても冷え冷えとした言い方だ。看守たちは幼い女子を前にして震え上がっている。もしかしたら彼女の家は相当な権力を持っているのかもしれない。それを後ろ盾にされれば、いかに警棒を持っていても何もできないのだろう。
翡翠、と呼ばれた女子は、牢屋のなかに堂々と入ってきた。
そして、俺の前に立つ。
「羽虫……というのが、おまえの名前ね?」
「……そうだ。あんたは?」
「翡翠。いずれ飛行船乗りになる者よ。おまえにもなってもらうから。それが恩赦の条件」
「は? おい待て、いきなりなんの話だ?」
「わたしたちの国に伝わる古い風習にのっとった話よ。わたしは祖父と同じく立派な飛行船乗りになる。だけど、それには優秀な副官が必要なの。『鳥』の名を冠する副官がね。かつて祖父は瑞鳥を従えていたからこそ、英雄となった。だからわたしにも『鳥』が必要なの」
「それが、俺なのか?」
「おまえしかいないと思った。だからね、祖父に頼み込んで、おまえを牢屋から出すことにしたの」
「だけど……」
困惑して、俺は首を振った。
「俺は鳥じゃない。羽虫だ。虫はお呼びじゃないだろう?」
「おまえに新しい名前を授けるからそれは問題ない。わたしと一緒に来れば、新しい世界が待っている」
「……何をさせるつもりだ?」
「わたしは祖父を超える飛行船乗りになりたい。だから、手伝ってもらうよ」
すっと手が差し伸べられる。
俺は呆然と、差し出された彼女の手を見つめる。
冗談を言っているのか、ふざけているのか。戸惑いを隠せず、俺は彼女が差し出した手と顔を交互に見つめる。こういうお嬢様は汚いものが嫌いだと思っていたが、彼女はそんなことは考えていないようだ。
まっすぐに、俺という薄汚い泥棒を、ひとりの人間として見つめている。
彼女の瞳は、宝石のように一点の曇りもなくきらめいていた。それに吸い込まれるような錯覚を覚えながら、俺は何も考えずにその手を握りしめていた。頭が働いていなかった。この先にどんな生活が待ち受けているのか何も分からないのに、俺はその手を取ってしまった。一切の打算もなく。
彼女は俺の泥だらけの手を強く握り、乱暴に立たせて、にっこりと笑った。
「言っておくけど、飛行船を盗もうとした罪は、そう簡単に帳消しにできないから、かなり苦労することになると思うよ」
「……分かった。何をすればいい。そして、俺はこれからどうなるんだ?」
「一緒についてきてもらう。わたしの副官として働くために必要なものを学んでもらうよ。そのためにはまず、新しい名前を与えないとね」
実は昨日の夜にひらめいたんだ。
そう言って、翡翠は嬉しそうに笑う。
そして、俺に、新しい人生を象徴する名前を口にした。
「第二の人生にようこそ。おまえの新しい名は、――『羽鳥』だ」
◆――機は熟した◆
もう三〇年ほど前の話だ。
わたしが兵士になったばかりの世界は、戦争に明け暮れていた。
植民地戦争。
他国の軍勢が、自分たちの富を確保するために一方的に侵攻してきた理不尽な戦争。これによってわたしの故国は侵略され、田畑や森やあらゆる都市が焼き払われた。上空から降り注ぐ無慈悲な爆弾の豪雨は、一切の悲鳴や叫び声を無視して大地を蹂躙した。
わたしはあの時の光景を決して忘れない。
助けることができなかった民が、あっという間に消滅していく様を。
死体を残さない地獄絵図。
生き残った者は、亡骸を弔うこともできずに、ただ嘆き悲しんだ。
そして、その傍らでわたしは立ちつくすしかなかった。
何も守れなかった。敵に一矢報いることすらできなかったのだ。はるか数千フィートという上空から地上を睥睨する敵の飛行船団を、見上げることしかできなかった。
無力だった。
ただただ無力だった。
生き残った民を守るべく、わたしは戦友たちとともに戦い続けた。
援軍は望めなかった。自分たちの力で敵に打ち勝たねば、わたしたちは全滅してしまう。けれども圧倒的な兵力と科学力を有する敵軍になす術はない。無策の軍勢のなかにいたわたしは、すこしでも多くの者を守ろうとした。
だからこそ、抗戦ではなく、撤退を続けた。
戦っていないというのに、必死に逃げ続けているというのに、仲間たちの数は減る一方だった。
戦傷を負った戦友は倒れ、飢えや病で民が息絶えていった。
絶望しか存在しない空虚な日々の果てに、わたしはようやく、終戦の報せを聞いた。羽民国の反撃が功を奏し、形勢が一気に逆転したという。もともと長期化していた植民地戦争は、侵攻側である西方世界の兵士たちも疲弊しており、和平交渉は早期に開始された。
侵攻国にせよ、同盟国にせよ、戦争を継続する理由も活力もなかった。
どの勢力も平和な時代を望んでいたため、妨害されることなく、和議は結ばれたのだ。
だが、その内容は到底納得できるものではなかった。
政府レベルの交渉では、被害にあった国民や組織に対する補償が一切なかったのだ。侵略者たちは、国土を蹂躙しておきながら一切の賠償責任を負わなかった。戦時中の戦争犯罪についても被害者たちを救済することはなかった。
それが、許せなかった。
これでは死んでいった者たちも浮かばれない。
なにも報われない。
――すべては、勝敗をきちんと決することができなかったからではないか?
侵略国は、実質的に敗戦したわけではない。政府や軍部が、これ以上戦争を続けることができないと判断したからこそ、羽民国や黒糸国や青丘国の同盟に和議を申し入れたのだ。同盟は勝ったのではなく、侵略者たちが戦争をやめるという都合に便乗しただけに過ぎない。
向こう側の姿勢は、結局のところ「戦争をやめてもいいぞ」というものだ。
誰が勝ったのか、負けたのか。その境界線があいまいにされたままだからこそ、禍根は残されているのだ。
死んだ戦友の無念を晴らすべく。
わたしは、わたしの思想と信念に同意する戦友とともに立ち上がらなければ。
大義を全うするためにも。
第一章、真珠海域にて凶兆を確認せり
新しい名を与えられて一〇年――翡翠と羽鳥は、空の上にいた。
一、
一〇月終わりの空に、荒々しい冷風が吹いていた。
――空は自由にして危険な領域だ。
自由と危険が混在する世界は、それを二分する境界線が存在しないため、空においてその予兆はきわめてあいまいだ。ゆえに飛行船乗りは己の知見と能力を駆使して、危険の予兆を見極めなければならないのだ。それは天候であり、自身を乗せる飛行船の保全状況であり、さらには同じ空域を航行する飛行船の動きでもある。
それに目を凝らさなければならないのは日中だけではない。長距離航路を進むともなれば、昼だけでなく夜も目を光らせ続けなければならないのだ。
だからこそ飛行船乗りは交代制を維持できる人数が必要であり、熟練した腕前を持つ人間も同時に集めなければならない。
さいわいなことに、翡翠船長と副官の羽鳥が率いる硬式飛行船「アスペリタス・ケートゥス号」は、羽民国の屈指の飛行船乗りを集めた船であった。そのため過酷な任務をいくつもこなしてきたこの飛行船は、人々からアスペリタス号と呼ばれ、いつしか広大な空で象徴的な飛行船としてその名と実績を周知されるようになった。
「ありがたい話だけど、有名人になればこんなに厄介な仕事が入ってくるのか……」
指令ゴンドラの船長席にて、翡翠船長は書状に目を通して溜息をついた。長い黒髪を一本に束ね、無造作に胸元に流している。身に着けているのは赤いラインが走る黒の詰襟で、飛行船を象った帽章付き制帽を指でくるくると回していた。彼女の胸元に揺れる鳥のペンダントは、飛行船乗りの無事を祈るお守りだ。何かを思案しているときのいつもの癖だが、彼女の鋲付きブーツが秒針のように音を刻んでいる。
「商人じゃなくて、軍人ですからね、今回の依頼主は」
そう相槌を打ったのは、船長席の傍らに立つ羽鳥だった。直立不動の姿勢で指令ゴンドラに佇んでいるため彫像のように見えなくもない。翡翠と同様に黒の詰襟を身に着けているが、彼の制服に走っているのは青いラインだ。
「しかも、わざわざ天華大陸にまで電信を飛ばして、我々に協力を要請したのですから」
「そう、わざわざ友邦に電信を飛ばして、天華の軍人が伝令を仰せつかったんだ。青丘国が購入した洋式軍艦が真珠海域で行方不明になるなんて、前代未聞の事件じゃないか。関係国に協力を依頼するとは、かなりの一大事だな」
「しかし、きな臭いですね。西方列強が売却した軍艦となれば、いずれも旧型のはず」
眉根を寄せて羽鳥が思案する。
「戦闘や耐久の能力に劣る艦を盗むとは。運用に手間がかかる代物ですよ」
「じゃあ、おまえは最新鋭の艦を盗めと言いたいのか?」
「そちらのほうが利点は大いにありますから。旧式の軍艦はスクラップにするのも一苦労ですから」
「さすが、元盗賊はおっしゃることが違う」
にやりと悪戯っぽく笑う翡翠に、大仰に羽鳥は顔をしかめるが、何も言わなかった。かつて盗賊団のひとりとして羽鳥は飛行船泥棒を働いていたが、羽民国の造船所で失敗し、将来の副官と見込んだ翡翠によって救われた過去を持つ。
恩赦といえども背負っている負債はいまだ重い。生き方を改めているのだが、翡翠はことある毎に羽鳥の過去をいじる。
「……さて、冗談はほどほどにして。軍事上の重要問題に首を突っ込むことになったからまずいんだよな」
憂いげに翡翠は頬杖をつく。
軍艦が行方不明になる前代未聞の事件は、どう考えても裏に国家か軍部の思惑が絡んでいるはずだ。下手すれば政治的な問題に発展する。最悪の場合は戦争事案になってしまうことだ。そうなれば空の航路は閉鎖され、飛行船乗りたちは自由に空を飛ぶことができなくなってしまう。
翡翠は溜息をつく。
「戦争となれば、軍事的有益性から飛行船がことごとく戦時徴用されてしまうな」
「それだけは……避けたいですね」
羽鳥も同意して呟く。
空はただでさえ危険が多いのだ。人間同士のいざこざを持ち込みたくないのはすべての飛行船乗りに共通する願いだ。
ゆえに羽民国を中心とした空の友好国は空の不戦条約を結んでいる。
その内容はいたって単純。空に大戦を起こさないために、飛行船は敵飛行船を撃沈し、対地爆撃を目的とした火力を搭載することを条約で禁止しているのだ。条約で許されているのは、自衛権を行使するための火力のみである。
しかしこれは、あくまで紙面で同意した条約だ。国益が絡めば国は簡単に破り捨てることができる。
所詮、空の不戦条約は、つかの間の平和を保つための時間稼ぎに過ぎない。
「どうします? 本国と元老院に意向を確認しますか?」
「指示を仰ぐまでもない。あのね、羽鳥――わたしたちはもう立派な大人だろう。いちいち指示を請う立場ではない」
翡翠はアスペリタス号の船長として立ち上がった。
彼女が向かったのは指令ゴンドラの右手に設置されている無線係の持ち場だ。下段に磁石式発電機を設置し、机と同じ高さの棚に無線機を置いている。それは携帯型無線機の払い下げ機だ。軍事目的で開発されたものの、電池供給に難があるため比較的新しい製品でありながら民間船舶向けに払い下げられたのだ。
無線係が電圧をチェックし、受話器型の送信機を手渡す。
マイクテスト、と翡翠が声に出す。かすかな雑音を含みながら、船内各所にその声が届く。
「本船はこれより行方不明になった青丘海軍艦艇の捜索任務に加わる。針路を2‐4‐5へ。長時間の空域任務が予想されるため、総員、全方位に警戒せよ。軍艦が行方不明になったことにより、広範囲の空海域に緊張が生じている。詳細は分かり次第総員に伝達する。まずは安全かつ迅速な航行に専念してもらいたい。以上」
「針路2‐4‐5へ転進。気象観測班はすべての観測台へ向かえ。原速にて両舷前進!」
副長として羽鳥がすかさず指示を出す。
指示を復唱する飛行船乗りたち。
飛行船は、指令ゴンドラの計器類や機器だけで操船できるわけではない。船内に広範囲に配置された飛行船乗りたちにはあらゆる仕事が与えられているのだ。浮揚ガスを詰め込んだ気嚢の状態保全や圧力調整、バラスト水の調整、気象観測班による風向・風速・気圧変化の予測、エンジンゴンドラの出力調整などなど。それらの膨大な業務を時計仕掛けの精密さできちんとかみ合わせなければならない。
そのため大型飛行船には無線通信は必要不可欠であり、正確な指示伝達のためにエンジン・テレグラフという出力指示機なども指令ゴンドラには設置されている。
指令ゴンドラは慌ただしくなる。船内各所の報告に合わせて航空図や船内見取り図にあらゆる情報を書き加える。さらにその数値や予想内容に目を通して、航空士官や操舵手が掛け声で舵取りや昇降舵を微調整していく。
「羽鳥。羅針儀海図を。問題の海域について照らし合わせておきたいことがある」
翡翠の声に頷き、羽鳥は作業台に長大な羅針儀海図を広げた。
羅針儀海図とは航海術においてもっとも重宝される精密な海図のことだ。海洋国家の軍事機密として保管されてきた羅針儀海図は、通常の海図と異なり、空から見下ろしたように写実的な地形と海域が書き込まれているのだ。
水上の船乗りにとって精密な情報が記された海図は何よりも重要な宝だが、雲層を超える高度三〇〇〇フィート(約九〇〇メートル)を飛行中のアスペリタス号にも、海域を正確に把握できる羅針儀海図は必要不可欠な情報だ。
「商用船並びに軍用船の航路を確認しておきたい」
「冬型の気圧配置によって秋の海に大時化が発生していると思われます。緑の線は平時の通常航路ですが、現在使われている航路は赤線で表示しています。ほぼ漁船の航路と重なっていますね。件の海域は潮流が激しいので」
「冬は海も空も荒れるからな。まあ梅雨時ほどじゃないけど……例の軍艦の航路は?」
「予定では、真珠海域を横断して青丘国の軍港ケリオントに先週到着するはずでした」
ふむ、と翡翠は唇に人差し指を当てた。彼女が何を考えているのか羽鳥は読めた。彼も羅針儀海図に目を向ける。
「真珠海域は完全に視界が開けた領域です。どう考えても、軍艦が失踪するような場所ではない」
「盗まれたとしても、すぐに青丘国が合流地点の周辺海域を捜索しているはずだから、追跡できないわけがない。軍艦が蒸発したなんてありえない現象だ。青丘国が輸入した軍艦を撃沈したとなると、標的を上回る規模の攻撃隊を用意する必要がある。だが、青丘国の領海近辺で、軍艦撃沈はできない。やったとしたら目撃者が存在するはず。だが、今回は……それが存在しない」
――であれば。
翡翠と羽鳥は視線を合わせる。
「考えられることはただひとつですね」
羽鳥の言葉に、翡翠は厳しい表情で頷く。
「おそらく例の軍艦は……空からの攻撃によって、撃沈されたんだ」
◆
真珠海域は、そこに無限の可能性があると願った漁師たちが名付けた海だが、実際のところは人が手にできる資源がなにもない乏しい海である。漁師たちはすぐに別の海を求めて針路を変えた。やがてここは大型船が通る安定した航路として活用され、それなりの設備が整った港湾が近隣に整えられた。
「……たとえ軍艦が盗まれたとしても、沈んだとしても、人の目が捉えているはずだ。あるいは耳が」
目的の真珠海域の上空三〇〇〇フィートにて、翡翠と羽鳥は指令ゴンドラの後方に設けられた測距室で巨大な望遠鏡を覗き込んでいた。
水上艦において測距室は艦砲射撃の弾道計算に用いられる設備だが、飛行船においては航空測量や物資を投下するための高度計算や正確な座標の測定に用いる。アスペリタス号においては倍率や可視範囲を改良して海難救助でも活用できる仕組みとなっている。
大きな測距儀を挟んで向かい合うように座る翡翠と羽鳥。羽鳥はピントを調整しながら、声をあげる。
「水面の反射はそこまでありませんね。波は穏やか。物資や重油が漂流しているのが確認できますが……かなり拡散しています。撃沈された正確な座標は割り出せないでしょう」
「味方は現場に到着していないな。捜索範囲をすこしずつ狭めていけば、すぐに見つかるだろう」
翡翠も望遠鏡を覗き込んだまま相槌を打つ。
アスペリタス号は近隣の島嶼を捜索して例の艦隊が停泊していないかどうかを調べたが、痕跡は見当たらなかった。空から確認できる場所はすべて探した。あとは水中のみ。没していればアスペリタス号の出番は終わり、任務は完了となる。
――都合よく話が終わればいいのだが。
翡翠と羽鳥は胸中に同じ思いを抱えていた。嫌な予感がするのだ。大掛かりな陰謀が動いている予感がする。
その時、測距室に指令ゴンドラの士官が入室し、敬礼する。
「翡翠船長。船首前方に発達した積乱雲を視認しました。針路転進されますか?」
「面舵二〇――速力はそのままで積乱雲を回避して。この辺りをゆっくり回るよ」
「はっ」
高度三〇〇〇フィートは積乱雲の多発する高度であり、雷を伴わないにわか雨が降ることがある。突然の降雨によって視界が遮られるため、見張り台を基点とした警戒態勢を見直す必要も出てくるだろう。
この先の空域で風の流れが不安定になっている場合は、雲の中で静電気が発生し、雷が落ちる可能性も十分に考えられた。
「……激しい雷雨になるかもな」
「気象班に安全な空域を探すように指示しますか?」
「移動したほうがいいね。ただ、捜索には全面的に協力できなくなるから、水上艦に発光信号を送らなければ」
「信号可視高度まで本船を降下させましょう」
水上観測を測距室の船務科員に任せ、翡翠と羽鳥は指令ゴンドラへと戻った。
「本船はこれより降下する。バラストタンク注水、ダウントリム一〇度、四半速にて両舷直進。十分な有視界気象状態を確保できるまで下がり続けろ」
「ダウントリム一〇度、四半速にて両舷直進。ヨーソロー」
操舵手の復唱とともに、船体はすばやく降下を開始する。
雲と接触しないように細やかな転舵を行いつつ、熟練の操舵手は前をしっかり見据えたまま雲海の下へアスペリタス号を潜り込ませる。船窓に水滴が浮かび上がるが、それが氷結しないように飛行船乗りたちがスクレイパーでふき取っていく。無線機から気象観測班や監視員の報告が次々に入り、中央机に広げられた航空図に細かな情報が書き込まれていく。指令ゴンドラは飛行船を動かす脳であり、目となるのは主にエンベロープ上層に設置された観測台だ。その情報を視認し、あるいは口頭で確認した操舵手が翡翠や羽鳥に判断を仰ぐことなくたくみに舵を操作する。
無線機が雑音を発した。
『翡翠船長、こちら下方観測室。南南西の海域に青丘国の戦旗を掲揚した艦影を確認しました。数は八つ、駆逐艦、巡洋艦、水上機母艦、救難艦、補給艦からなる一級艦隊です』
「こちら船長、把握した。操舵手、本船の針路と水上艦の針路を同調して」
「承知!」
「中央ゴンドラは信号灯を下ろして。一時捜索区域を離脱して悪風をやり過ごすと伝えて」
背後で翡翠がきびきびと指示を出しているのを耳にしながら、羽鳥は航空図にペンを走らせ、何気なく窓の外に視線を向けた。指令ゴンドラの右手の白い雲海に、何か異質な影がよぎる。それは雲の陰ではなかった。目を細めるが、うごめく雲に呑み込まれたように影はすばやく姿を消した。
右舷から二十キロは離れているだろうか。羽鳥は思わず窓辺に近寄る。
――何かがいる?
胸騒ぎを覚えて無線機に手を伸ばした。
「こちら羽鳥。全観測員に確認する。付近に飛行船が飛んでいなかったか?」
『こちら前部観測台、本船以外の船影は確認できず』
『中央観測台も同じく』
『後部観測台です。こちらも船影を確認できません』
『こちら下方観測室。今のところ船影は確認できません。エンジン音も本船以外は確認できず』
返ってくる答えに、羽鳥は違和感を抱えながらも了解と応答する。
「――羽鳥?」
怪訝そうに問いかけてくる翡翠。
「何を見た」
「はっきり捉えたわけではありませんが、船影を確認しました。右舷側です」
「見間違いじゃないの?」
腑に落ちない様子で翡翠が首を傾げる。羽鳥と同様に窓の外に目を向けるが、右舷に船影を見出すことはできなかった。
「飛行船で捜索支援を要請されたのはアスペリタス号だけと聞いている。軍がこの辺りを封鎖しているから、わたしたち以外、ここを飛んでいるはずがないよ。もし存在するとしてもそれは漂流しているも同然。空中難破船だよ。エンベロープに着氷すれば飛行姿勢を安定させることは難しくなるし……」
「そうですよね……見間違いですよね」
そう答えながらも、羽鳥は違和感を拭えず窓の外に視線を向けてしまう。もし飛行船が飛んでいるなら、飛行船を動かすレシプロ推進器によって雲の形が歪められているはずだ。いまのところ、不自然にゆがんだ雲の形は発見できない。
飛行船の痕跡は見当たらないのだから、船影は、きっと見間違いだろう。
疑念を払おうと、頭を振って羽鳥は船窓から目をそらした。ちょうど、通信員が報告の声をあげたところだった。
「水上艦より信号灯点滅確認! 『こちら青丘海軍、第三艦隊。貴船を確認せり。所属を明らかにされたし』とのことです」
「アスペリタス号であることを伝えろ」
翡翠がそう指示を出したまさにその時だった。
風音、小さな雷鳴、エンジン音。飛行船に満ちた生活感のあるあらゆる物音。
それらで満たされた空の世界に、異質な音が紛れ込んだのだ。
ひゅうぅぅぅぅぅうぅぅ……
ぞっとする思いで翡翠と羽鳥は顔を見合わせる。
「なんだ、いまの音は?」