MOON FIGHTERS!
第1話 ファント・ホッフの立ち往生したローバー
「いい加減にしておくれよ!」
中年女の怒鳴り声が機内に響き、葡萄染克也は目を覚ました。
大宮郊外の家で一年ぶりの長期休暇を過ごしてから、月の職場に帰るシャトルの旅の途中。地球から二八万キロはなれた、二日目のことだ。
克也は無精髭の生えたあごまわりを揉んで、名刺サイズの手鏡をのぞき込んだ。
気だるげだが引き締まった相貌。
ようやく無重力による顔のむくみがおさまったようだ。きのう寝たときはアンパンマンをイケメンにしたような顔だったが、いまはただのイケメンに戻っている。
うーん、俺様、いい男。
中年女の怒鳴り声はなおも続いていた。
葡萄染の席から数えて四列前のちょい左側。見ると南米系の客室乗務員が、日本人の若者と押し問答をくり広げていた。
克也はほんの興味から『端末』の自動翻訳をオンにした。おばさんの頭上にすらすらとスペイン語の和訳が字幕表示されていく。
『点検なら何度だってやってるよ! ……全自動で、それこそ一秒に何百回とね!』
「でも念のため、確認して欲しいんです」
『だからそれはできないってんだよ! しつこい坊やだね!』
「お願いします。妙な匂いがして……」
『どうせあんたの体臭だろ? 《性的な表現》でも洗っときな。さあ、話はおしまいだよ!』
この端末の翻訳機能だと、下ネタワードには自動的に規制がかかる。まあ、なにを言ったのかは想像がつくが。
乗務員のおばさんがその場を立ち去ろうとする。
だが日本人の若者は、相手の手首をつかんで止めた。
『ちょいと――』
「すみません。いやな予感がするんです。どうか一度だけでも……!」
『坊や。その手を放しな』
「ちょっと確認するだけですから」
『逮捕されたいのかい!?』
客室内が、にわかに緊迫した。
(あれは、まずいかもな……)
と、克也は思った。
このシャトルにはパイロットがいない。地球低軌道から月軌道への便は全自動なので、この乗務員のおばさんが責任者になる。乗務員は『客のお世話係』ではなく、むしろ『保安官』に近い。逮捕権限も与えられているし、腰には電気銃もつけている。
あの若いの、拘束されて強制送還になるかもしれない。
まあ、自分には関係のないことだが――
試しに端末でその日本人の若者を検索してみる。意外にも個人情報がずらずらと詳しく表示されてきた。
《真朱孝太郎》
《二十歳》
《知多宇宙高専卒業》
真朱と書いて『まそほ』と読むのか。変な名前だ。葡萄染克也は自分の名字の珍しさもそっちのけで、そう思った。
さらに追加情報。
《昨年四月付けで『(株)鴻救命』に採用》
《現在、月軌道ステーション『フィオルクヒルデ』ゆきのシャトルPLA210便に搭乗中》
ってことは、つまり――
(うちの社員じゃねえか!?)
どうりで詳しい個人情報が閲覧できたわけだ。
克也は身を起こし、あわただしくシートベルトを外した。駆けつけて仲裁くらいはしてやらなくては、あとで会社の連中に何を言われるかわかったものではない。
「待って! ちょっと待て!」
たいして得意でもないスペイン語を叫んで飛び出す。だが克也は、ここが無重力空間だということを忘れてしまっていた。
(あっと……やば……)
地上の感覚で床を蹴ったせいで、彼の背中はあっという間に天井にぶつかり、くるくると回転しながら、いさかいの現場に飛び込んでしまった。
「うおっ……と」
問題の若者――真朱孝太郎が彼の体を両手で受け止める。長身の克也が、頭半分くらいは背の低い青年に『お姫さまだっこ』をされたような格好になってしまった。
気まずい沈黙。
「あの、大丈夫ですか?」
困惑した様子で、真朱孝太郎が言った。
端正な顔立ちの若者だ。
腕も首筋も、よく鍛えられているのがわかる。吊り気味の目はこの畑の新人らしい向こう見ずさを感じさせるが……同時にどこか『危うい強さ』を連想させた。
危うい強さ――
なぜかその瞬間、そう思った。
「あの?」
やっと克也は我に返る。
「あー……、すまん。ちょっと……その、あわてて……な」
「はあ」
「ってか、放してくれ」
「あ、はい」
真朱は葡萄染を抱いていた腕を放した。
ふわりと体が宙に浮く。
克也はばつの悪い思いを隠して、なるべく無重力空間の熟練者らしく、最低限の動作で姿勢を立て直した。
軽くひとつ、咳払いをする。
「おほん」
『それで? あんたは?』
乗務員のおばさんは、いきなり割って入ってきた克也をうさんくさそうな目でにらみつけていた。
「いや、乗務員さん、実はですね――」
克也は自分の身分をあかし、この若者が自社の新入社員だということを説明した。そして『うちの新人にはよく言い聞かせておくから、今回は見逃して欲しい』と頼み込み、よそから見えない巧妙な仕草で五〇ドル(本物の紙幣だ)を手渡したりまでした。
そのやり取りを、真朱孝太郎は目を丸くして見つめていた。特に賄賂のくだりでは、どこかのスーパーで万引き犯を目撃した子供みたいな顔をしていた。
『ふん……』
乗務員のおばさんはそっけなく紙幣をポケットにねじこむ。後ろめたさなど微塵もない、当然の報酬を受け取ったような態度だった。
『騒ぎは二度とごめんだからね』
そう言って乗務員が立ち去っていく。周囲の乗客も興味を失い、それぞれの暇つぶしに戻っていった。
「やれやれ……」
「あの……どなたですか?」
「真朱、孝太郎だったか? 勤務先の隊長で検索してみろ」
「はあ……。って、あっ……」
やっと事情がわかったのか、真朱孝太郎はぴんと背筋を伸ばした。自分の直接の上司が、たまたまこの月行きシャトルに乗り合わせて、仲裁に入ってくれたことをようやく理解した様子だった。
「し……失礼しました、葡萄染隊長!」
「お、う」
鴻救命株式会社、月面救難隊、三隊隊長の葡萄染克也は、ちょっと歯切れの悪い返事をしてから、真朱孝太郎の襟首をつかんで引き寄せた。
「うわ……」
「真朱くん。乗務員に絡んで怒らせるとか、きみアホなのか? あのままだったらUターンで地球に強制送還だったぞ?」
「はい。ですが……」
「ですが? どんな『ですが』があるってんだ? 言ってみな」
いちおうは言い分を聞いてやろうじゃないか、と克也は思った。
「異臭がしました」
「異臭、どんな?」
「なにか金属が焦げたような……そんな異臭です。およそ五分前。ほんの数秒くらいでしたが、間違いありませんでした」
克也は鼻をくんくんとさせた。
焼けた金属臭などはまったく感じない。
月行きの旅程でここ数十時間も風呂に入れないでいる乗客たち――『軌道労働者』の発する人熱れ、彼らの飲食物の匂いなどが渾然一体となったひどい客室空間だったが、まあ、そんなものはすぐに鼻が慣れて感じなくなる。
「何にも匂わねえぞ」
「いえ、匂いました。あそこ、見てください」
真朱孝太郎は頭上の壁面を指さした。制気口(吹出口)がある。そのサイズは本でいったらB5版くらいか。
あそこから浄化済みの空気が流れ出て、客室内を複雑に巡り回ったあと、足下の排気口に吸い込まれていくことになる。
すこし強すぎるくらいの風流だし騒音も耳障りだが、そのおかげで無重力空間ですごす乗客は窒息しないですんでいる。なにしろ風(対流)が起きないと、乗客の呼気がその乗客の顔面にまとわりついてしまう。
「あの制気口がなんだってんだ?」
「横に番号が書いてありますよね? 六番。このシャトルの構造図を調べたんですけど、あの六番と横の五番の制気口、酸素発生装置からいちばん近いんです」
克也はようやく真朱の言いたいことを理解しはじめた。
「このシャトルのOG(酸素発生装置)に故障が起きた、と。そう言いたいのか?」
「最悪の、念のためですけど……」
「ふむ……」
克也は端末――『レンズ』を操作してシャトルの同型機の構造図を呼び出した。レスキュー関係者の権限なら構造図の閲覧くらいはできる。
『レンズ』はその名の通り、コンタクトレンズ型の端末だった。レンズとポケットサイズの端末で構成される。入力操作は頭の中でキーを打って、ポインタを操るような感覚だ(ちなみに思考の読み取りは、まだ当分実用化は無理だと言われている)。
端末の表示したシャトルの構造図を見る。地球で使う時よりもずいぶんと解像度が低い。放射線対策でコンピュータ機器のスペックが抑えられているためだった。
問題の箇所はすぐに見つかった。
真朱の言うとおり、確かに酸素発生装置が近い。しかし同じ装置は他にいくつもあったし、そのひとつが故障しても当面は問題ないはずだった。
「百歩譲って、だ。その予感が的中していたとして、あんなやり方で乗務員がまともにとりあってくれると思うのか?」
「……は。それは……その……」
「薄給の乗務員に、しつこく『お願いします』を繰り返して。あまつさえ手まで出して」
「申し訳……ありません」
「話し方ってもんがあるだろ。話し方ってもんが」
「す、すみません」
そう言うと真朱は身をひるがえし、座席のシャフトを両手でつかんだ。
「ペナルティの腕立て伏せ、三〇回やります。……いーーち、にーーい、さーーん」
たぶん宇宙高専か訓練所で常習的にやらされてきたのだろう。真朱孝太郎は当然のように腕立て伏せを開始した。
「いや待て。待てって」
そもそもこの無重力空間で、腕立て伏せはぜんぜんペナルティになっていない。
「よーーん、ごーーお、ろーーく」
「普通に恥ずかしいから。やめて。やめろってば、おい」
周囲の乗客の視線が痛い。それどころか、さっきの乗務員のおばさんが殺しそうな目でこっちを見ている。
「やめろ!」
「はっ……」
真朱孝太郎はやっと腕立て伏せをやめた。
「あの、三〇回じゃ足りないですか……?」
「騒ぎを起こすな、って言ってるんだよ!」
「あ。すみません……」
妙な新人だった。真面目なんだか、ふざけているのかよくわからない。
克也はあきれながら端末を操作し、シャトルのステータス画面を真朱と共有した。
ステータスはすべて異常なし。問題の酸素発生装置(OG)も『OG1(一番機)』から『OGB(バックアップ)』まで、すべて正常。
「見ての通りだ。異常はない。これ以上騒ぐと俺も庇いきれんぞ」
「でも……」
「わかったな? わかったらさっさと席に戻って寝とけ、マホソくん」
「マソホです。ですが……」
なおも言い募ろうとする真朱孝太郎の胸ぐらを、葡萄染はぐっとつかみあげた。鼻息がかかるくらいの距離まで顔を近づけて、きっぱりと宣言する。
「話はおしまいだ」
「……はっ」
それでも真朱孝太郎は不服そうだったが、克也の手で座席に押しつけられ、シートベルトを着けられるのに抵抗はしなかった。職業上の習慣で、シートベルトの金具を指さし『ヨシ』とつぶやく。
「いいな? おとなしくしてろよ」
席に戻り、水を飲み、一息つく。
真朱孝太郎が未練たっぷりにチラチラとこちらを見ていたが、克也は気づかないふりをして映画観賞を始めた。
大昔の刑事ものだ。冒頭のアクションシーン――悪党がドンパチの末に女の子を人質にとって、けっきょく主人公に射殺された五分目あたり。
ポーン、とアラーム音。
画面がフリーズして、シャトルからの告知文が表示された。
『節電のおしらせ』
『機内のシステム調整のため、消費電力を制限させていただきます』
『端末内の動画再生、ゲーム等の各種エンタテインメント機能は、現在ご使用できません』
『ご不便をお詫びいたします』
機内の照明も非常用に切り替わる。端末へのダウンロードも中断とは。
薄暗くなったキャビン内で、乗客が一斉に不満のうなり声をあげた。
その喧噪の向こう側、薄暗がりの中から先ほどの乗務員のおばさんが克也を手招きしている。聞こえはしないが、口の動きで『こっちに来い』と言っている。
克也は席を離れて、おばさんのそばに漂っていった。
「なにか?」
『あんたレスキュー会社の人だろ? これ見てくれないかね』
端末にシャトルのステータス画面が共有された。乗務員の権限でほとんどの情報が開示されている。
二番の酸素発生装置が故障していた。
「…………!」
故障といっても機能を停止しているのではなく、その逆だった。
作り出す酸素が多い。
ログを見た限りでは、ここ一時間、酸素濃度が増えている。他の酸素発生装置が生成量を減らしてバランスを取っていたが、それが追いつかなくなってきて、警告が出たのだ。
葡萄染は自分が先ほど閲覧した方のステータス画面を見た。
こちらは相変わらず異常なし。二番の酸素発生装置もまったく問題を起こしていない。
「なんだ、このステータス? デタラメじゃねえか……!」
『会社の方針で、外の人間には『完璧なステータス』を見せることになってるんだよ。クレームを入れて運航に支障を出す客が多くて。ライバル会社に雇われてるって話だけど』
その種の噂は葡萄染も聞いたことがあった。だがあくまで噂レベルだったし、自分の乗っているプラタ・ルナ社のシャトルまでそんな雑なことをやってるなんて、想像もしていなかった。
「機の安全はどうなってるんだ。万一の時に――」
『やだねぇ。万一なんて起きるわけないだろ』
「現に俺に相談してるじゃないか」
『機のトラブルにあたしが対応できないと、管制所に連絡が行っちまう。管制所から機を操作したら、査定に響く』
克也はさっき、この乗務員に賄賂を渡した。そういう相手なら話もしやすいと考えたのだろう。
「二番の酸素発生装置を止めるしかない」
『だから、査定に響くんだよ。あたしゃ子供が三人いて……わかるだろ? 止めずになんとかならないかね』
「ならない。酸素濃度がもう四〇パーセント近くだぞ? 火災が起きるかもしれない」
普通の酸素濃度は二一パーセントだから、倍近くだ。それでも乗客に酸素中毒などが起きる心配はないが、このまま増え続ければ火災の心配はある。普通は火がつかないものが、驚くほど簡単に着火するようになるのだ。
「いいから二番を止めろ。そして管制所に報告するんだ。正確に」
『だけど』
「止めなきゃ俺が報告する。あんたが反対したこともな。MDO(月面開発機構)に記録が残るぞ」
アテンダントの顔に怒りがよぎった。克也に相談したことへの後悔も。
「止めてくれたら、やっぱり報告する。鴻救命を代表して、あんたの措置を賞賛するだろうな」
これでも鴻救命という会社はそれなりに名が通っている。そこからの賞賛をプラタ・ルナ社――航宙会社も無下にはしないだろう。
『むーん……』
彼女の顔に今度は迷いが浮かんだ。だが迷う理由などどこにあるのか。どっちにしても報告はされるのだから。
『どうやらあんたの言葉に従った方が良さそうだね……』
「悪いようにはしない。よく相談してくれたよ」
大げさなウインクをして、克也は自分の席に戻っていった。
小さな故障だ。大事には至らない。
だがもし、あの客室乗務員が自分の給料を心配して問題を放置し続けていたら、どうなっていただろうか? いや、それだって深刻化する前に機のAIが対応していただろう。だがそのAIすら、社の方針でギリギリまで問題の隠蔽をしたら、ひょっとして……。
「葡萄染隊長」
席の前で、真朱孝太郎が克也を呼び止めた。
「あの……大丈夫でしたか?」
「…………」
克也はしかめっ面でその若者を凝視し、思案していた。
この真朱とやらが先ほどああして騒いだのは、結果として正しかった。いや、騒いだのは問題だが、酸素発生装置の故障は本当だった。
だとしても、実際に事故が起きる危険など、ほんの一パーセントかそれ以下くらいの確率だろう。だが一パーセントというのは、運航上、許されないレベルの危険度だった。なにしろ、もし同じ状態のシャトルがほかにもいくつか存在して、それが年に五〇回くらい就航していたとしたら……?
ほとんど一〇〇パーセントだ。もちろんこれは数字の遊びだが。
「ん……」
曖昧な声で告げて、葡萄染克也は席についた。
客室乗務員が言われた通りの措置を行なったのだろう。数万キロ彼方のリサージュ軌道の管制所で機体がコントロールされ、機内の電力も通常状態に戻った。二番の酸素発生装置は停止され、他の装置が肩代わりを引き受けた。
なにも問題はない。
「解決した。席に戻れよ」
答えを待っている真朱に告げる。
「……そうですか。失礼しました」
真朱は一礼すると、自分の席に帰っていった。
克也はいまさら映画を観る気にもなれず、ブランケットを引っかぶり寝直そうとした。だが頭から一つの思いが離れなかった。
あの新人――真朱孝太郎が騒ぎ立てなかったら、どうなっていただろう?
克也とアテンダントは知り合うこともなく、賄賂を渡すこともなく、酸素発生装置の故障は放置され、万一の可能性だが静電気か何かがきっかけで火災が――
いや、ばかばかしい。
ただの偶然、ただの巡り合わせだ。
真朱孝太郎も、騒ぎたくて騒いでいたわけではない。
ときおり、こういうことがあるのだ。
危険に対する嗅覚、といえば聞こえはいいのだが、単なる臆病風の方が近いかもしれない。とにかくなにかの危険を感じ取ると、あと先を考えずに行動に移してしまう。その結果、人とトラブルを起こしてしまうこともしばしばだ。
鴻救命に入社して、地上や地球軌道で研修をしていた時も何度かそうしたことがあったのだが、月面への赴任早々にもやってしまった(正確には赴任前だが)。しかも自分の上司――葡萄染隊長の見てる目の前で。
とはいえ、酸素発生装置のことで揉めた件そのものは後悔していなかった。なにかがまずいと思ったのだ。ここで放置はできない、と。
その結果逮捕されて、地球に送還されたとしてもそれは仕方がない。何年も月面救難隊――通称『ゲッキュー』で働くために努力してきたが、それが台無しになるのもやむなしだ。本当にそう思っていた。
自分のことは後回し。
この種の職業を選ぶタイプには多かれ少なかれそうした性向はあるものだったが、孝太郎はそれが強すぎるきらいがあった。
そうした点を除けば、真朱孝太郎はごく平凡な若者だった。宇宙高専や研修時代もそこそこ優秀な成績だったが、なにかが飛び抜けて優れていたわけでもない。むしろ苦手科目がなくて、なにをやらせても卒なくこなすタイプだ。どの科目でも八〇点。結果として『総合点で優秀』になってしまう。
注目を浴びることといったら、体育の時間にドッジボールをやると、必ず最後まで生き残ることくらいだった。しかも最後の一人になっても、延々とボールを避け続けてひんしゅくを買うところまでがセットだ。
そんな真朱孝太郎が、乗務員のおばさんと悶着を起こしてから三六時間後。
シャトルはほぼ通常通りの運行を続け、無事に月軌道ステーションに到着した。
その月軌道ステーションは『フィオルクヒルデ』と名付けられていた。
元のステーションが建設されたのは三〇年以上前で、それから増設に次ぐ増設を繰り返し、最長三〇〇メートル超のサイズにまで拡充された。定員も最初は八名だったのが、いまでは最大で八〇〇名だ。
月面に向かう者はこの『フィオルクヒルデ』か、他いくつかの異なる軌道のステーションで、地球からのシャトルを降り、月面の各都市ゆき着陸船に乗り換える。
地球―月軌道のシャトルを降りる乗客たちの行列が出来たとき、真朱孝太郎は葡萄染隊長のすぐ隣に並んだ。
葡萄染克也。
鴻救命、月面救難隊三隊(第三小隊)隊長。元は神戸市消防局。三〇歳。
検索だとそれくらいしか出てこなかった。
身長は一八五センチくらいだろうか。無重力だから少し背は高くなっているかもしれない。
ぼさぼさの長髪を後ろで結えて、不精髭を生やしている。宇宙にいるのに、古い時代劇に出てくる野武士みたいだ、と孝太郎は思った。
目つきは気だるげだが、それはライオンの持つ、かりそめの倦怠感を連想させた。必要ならばいくらでも激しさを放てそうな、活力を秘めた眼差し。いくつもの危険を乗り越えてきた者の達観。それらがないまぜになって、ある種の艶かしさすら感じさせた。
いや、二十歳の孝太郎に大人の男の色気なんて分かりようもなかったが、それでもそういう何かを感じることはできた。
黙って並んでいるのも気まずかったので、孝太郎は葡萄染に声をかけた。
「隊長」
「おう」
「機内ではご迷惑をおかけしました」
「もう御免だぞ」
「でも、心配だったので……」
すると葡萄染隊長は立ち止まり(実際は空中で手すりをつかんで停止して)、孝太郎を凝視した。怒っているのではなく、なにかの珍獣を観察するような目だった。
「あの?」
「ふん」
葡萄染はため息をついてから、到着ロビーへと飛んでいった。その背中を孝太郎はあわてて追いかける。このステーションははじめてだったので落ち着かない気分だった。
この『フィオルクヒルデ』は業務用の月軌道ステーションだ。
月の南極と北極をめぐる低軌道(三〇㎞〜二〇〇㎞)を周回しており、月面の都市や施設はもう目と鼻の先だった。『鉱夫』や各種基地の従業員など、仕事で月に来た人々のための施設であり、観光客はあまり使わない。
彼らが通るエアロックやロビーは暗くて古く、窓のたぐいも一切ない。リゾートの広告はないのだが、高利貸しの金融業者やデートクラブの広告ならあちこちに表示されている。
やれ『あなたの夢を応援します!』だの、『素敵な出会いをお届けします!』だの。貧乏人のはした金をむしり取るための美辞麗句が、そこかしこでキラキラと踊っている(以前、軌道経験者の教官から気をつけるように言われていたおかげで、孝太郎はそうした宣伝コピーを総スルーできた)。
このステーションを利用する『軌道労働者』たちの大半は、何らかの企業や組織から渡航費用を出してもらっている。
そうでなければ、孝太郎のような庶民がそう何度も月になんて来られるわけがない。アポロの時代からおよそ一世紀ちょっと、人間ひとりを月まで運ぶ費用はずいぶんと安くなってきたが、それでも平均的なサラリーマンの年収半分が軽く吹き飛ぶくらいの金額はかかる。
エアロックを抜けて検疫の列に並んでいると、すぐ前に立つ葡萄染克也隊長がくるりと振り返って言った。
「なんで付いてくる?」
「いえ。なんとなく……」
検疫の列をみれば、ほかの列は空いているのに、孝太郎だけがぴたりと葡萄染隊長の後ろにくっついているような格好だった。
「俺の隊長、ですし……」
「なんだそりゃ。さっさとよそに並んで手続きを済ませろ」
「はい」
おとなしく空きの列に並んで検疫室に入る。腕をのせて各種センサがスキャン、マイクロマシンのチェックも行われる。瞬時に『問題なし』の結果が出る。
検疫をパスした孝太郎が部屋を出ると、今度は税関の列ができていた。同様に検疫を終えた葡萄染隊長の後ろ姿が見えたので、またその背中に並ぶ。
「だから、なんで付いてくるんだ」
「いえ、あの。……なんか、税関って心細くないですか? カメラで監視されて、いろいろ変な質問されて……」
「はあ? なにを弱気な……。おまえ、シャトル乗務員のオバハンにケンカ売ってたじゃねえか」
「いえ、そんな別に、ケンカを売ったわけじゃ……」
「売ってただろ」
「売ってないですよ」
「売ってた」
「売ってないです!」
「弱気なんだか強情なんだか……。わけのわからん奴だな」
呆れた様子で、葡萄染は列を進んでいく。孝太郎は彼からはぐれないようにぴったりと付いていった。
「だから、くっつくなって」
「でも……」
「人の袖をつかむな」
「あ、はい」
思わずつかんでいた葡萄染隊長の袖を、真朱孝太郎はあわてて放した。
だがその二〇秒後にはまた無意識につかんで、葡萄染にぶちキレられた。
問題なく税関を通過してから、葡萄染克也は真朱孝太郎に告げた。
「俺はこれから職場だ。おまえはレヴァニア市の本部に出頭しろ。そういうわけで、おさらば、おつかれ」
「え、でも……」
「おつかれ!」
彼らが勤務する鴻救命の本部は、月面上にある(本社は地球だが)。だが実働部隊であるレスキュー隊――通称『ゲッキュー』は、いまいる月軌道ステーションにも待機している。
克也はその『ゲッキュー』の詰め所に、顔を出しておきたかった。同じ隊の副隊長がちょうど非常勤でいるはずなのだ。
さっさと現場に復帰してレスキュー隊員の勘を取り戻したいのが、葡萄染克也の切実な気持ちだった。
地球に残してきた家族への未練を、はやく断ち切りたい。真空と放射線、レゴリスまみれの危険な現場に戻れば、小さな悩みのあれこれなど消え失せてくれることだろう。
だというのに、真朱孝太郎は付いてくる。
『おさらば、おつかれ』と言ったのに付いてくる。
税関から離れ、無重力空間を漂うようにして業務用区画の一角にたどり着いた克也は、振り返って真朱をにらみつけた。
「どこまで付いてくるんだ? おい!」
「ここからレヴァニア市行きのシャトル……五時間くらい後なんです。それまでなにもする事がなくって」
「だったら好きにステーション内の観光でもしてりゃいいだろ。なんで俺をつけ回す?」
「なんだか、心細くて」
「ったく……!」
苛立ちもあらわに、葡萄染は壁を叩いた。その反動で体が左斜めにグルグルと回転して浮かんだが、すぐに手足を動かして空中にピタリと止まる。
「大丈夫ですか?」
またお姫さま抱っこの姿勢で待ち受けていた真朱が、心配そうに言った。
「ほっとけ。やれやれ……」
野良犬にでも付きまとわれてる気分だった。まあ、いまの日本で野良犬なんて見たことないが。
「しょうがねえ。じゃあ……ヒマなんだったら、職場を見学しとくか?」
ため息混じりの葡萄染の言葉に、真朱はぱっと目を輝かせた。
「い、いいんですか!?」
「社員だから別にいいだろ。……ああ、その前にちょっと待ってろ」
「?」
「用事がある。二、三分だ」
「はあ……」
克也は通路を急ぎ、目当ての一室へと入っていった。業務用区画に設けられた、小さな一室。そう……地球を発って三日間、ずっと、ずっと恋い焦がれていたあの一室。
その部屋の名は喫煙室!
二二世紀まであと一〇年足らずに近づいてきた今日だが、人類はいまだにあの悪弊――喫煙習慣を根絶できずにいる。
おおまかな理由は三つ。
医学の進歩で、肺がんや高血圧病がおおむね克服されたため(だからといって医学は喫煙を推奨していないが)。
薬学の進歩で、ニコチンなどの習慣性をある程度コントロールできるようになったため(だからといって薬学はニコチンの摂取を勧めていないが)。
そしていちばん大きいのが『健康的なライフスタイル』への若い世代の反発だろうか。六〇年代生まれの葡萄染克也は、『不健康はカッコいい』の直撃世代だった。タバコは吸う、酒は飲む、なんなら入れ墨だってしてしまう。そういうのが『クール』だとされた風潮が、ほんの少し前まであったのだ。
あいにく入れ墨まではしていないが、酒は嗜む。そしてタバコも楽しんでいる。まあちょっと下の世代は、克也たちの悪い習慣に眉をひそめて、あれこれ難癖をつけているのだが(真朱孝太郎くらいの連中は、『タバコは害悪!』の世代だ)。
克也が入った喫煙室は無人だった。男が四人で満員になるくらいの狭い空間だ。
いそいそとタバコを取り出して、その一本を口にくわえる。最近になって復刻した、『マイセン』という銘柄だ。名前の由来は克也も知らない。令和時代よりもっと大昔に、そういう銘柄があったらしい。
さっそく火を付けたかったが、喫煙室に備え付けのライターが、かなりガタついていてなかなか着火しない。
克也は自前のライターは持っていなかった。この月世界でライターを持ち歩くのはちょっとした違法行為だ(抜け道はあるのだが非常に面倒くさい)。備品のライターも鎖付きで、室外へは持ち出せないようになっている。そもそもこの喫煙室に入るということは、火災発生時はこの区画に閉じ込められて、消火のための緊急減圧で窒息死することに同意したと見なされる。
いらいらしながらライターを何度もカチカチ鳴らすが、火はつかない。ライターの小さな小さなレバーを微調整して、ちまちまと点火を試みる。
「…………お!」
ようやく、ようやく、おんぼろライターに火が点った。無重力空間なのでバーナー式なのが風情にかけるが、火ならなんでも大歓迎だ。克也は慎重にタバコを近づけ、思い切り煙を吸い込もうとした。
さあ、三日ぶりのタバコの味は――
「ここは禁煙です!」
喫煙室に入ってきた真朱孝太郎が、なにか銃のようなものを彼に向けて引き金を引いた。
水鉄砲。
ドンキやらダイソーやらのジョークグッズコーナーで売ってそうな、拳銃型の水鉄砲だった。
小さなコップ一杯分くらいの水だが、それがインパルス消火器みたいな勢いで葡萄染の顔面に炸裂した。
「ぶはっ!?」
おもわずのけぞり、克也は喫煙室の壁を何度もぶつかって跳ね回る。ずぶ濡れのタバコがバラバラになって、無数の水滴とともに排気口へと吸い込まれていく。
「な……」
なにをしやがる――
そんな言葉も出てこないほど、あまりのことに呆然とした克也の前で、真朱孝太郎は真剣な表情のまま、水鉄砲をしまいこんだ。
「念のために持ち歩いてまして。……よかったです」
「なにが……よかったんだ……?」
わなわなと震えながら克也は言った。
「タバコはNGです」
「ここは喫煙室だぞ……? 見ろ。何のためにライターと灰皿があるんだよ!?」
「でも、燃焼式のタバコはNGです」
「なわけねえだろ。俺は何度もここを使ってるんだ」
無重力下で水が顔面にまとわりつくのを、袖口でペタペタと吸い取りながら克也は言った(とても気持ちわるい)。
「はい。こちらをごらんください」
真朱はぎこちなく端末を操作し、克也に喫煙室の文書を提示した。
「ごちゃごちゃ書いてあるな……。宇宙でのタバコ使用は……えーと……?」
「先月から、燃焼式のタバコはクラスⅣの防火施設でも禁止になりました。この喫煙室はクラスⅢです!」
「…………む」
その書面によると、電子式のタバコはいちおう、OKらしい。まあ確かに、これまで火を使うタバコがステーション内でOKだったという事実の方が異様ではある(これには複雑な事情があるのだが、関係ないので割愛する)。
「初耳だぞ? というか誰が決めたんだ、喫煙室でタバコ禁止なんて」
「MDO(月面開発機構)みたいですね。とにかくここでは、火を使うタバコは禁止です」
「妙に詳しいな……」
「研修で地球のステーションに勤務してましたので。向こうは何年も前から禁煙です」
ここは古い月軌道ステーションのさびれた喫煙室だ。ここでの燃焼式タバコが先月にNGになったことなど、だれも気にとめていなかったのだろう。灰皿やライターが放置されていたのも、そのせいだ。
だが。だとしても――
「だとしても……だ。いきなり上司に向かって、変な水鉄砲をぶちかますアホがどこにいる!?」
「はい。ここにいます」
「いるなよ!」
真朱は胸を張って答えた。
「ありがとうございます」
「ほめてねえ。これっぽっちも、一%もほめてねえから」
すると真朱は本気で心外そうな顔をした。
「え?」
「『え?』じゃねえよ! アホかおまえ! 俺のマイセン、全部ずぶ濡れだぞ!? いますぐ返せ! 返しやがれ……!」
たまたま入ってきた別の愛煙家があわてて羽交い締めにしてくれなければ、克也は孝太郎を絞め殺そうとしていたかもしれない。
『フィオルクヒルデ』の下層部(便宜上『下層部』と呼ばれている)、第三コンパートメントの一角に彼らの職場はあった。
その区画はもう二〇年くらいの古さで、歴史画像で見たことのあるISS――初期の国際宇宙ステーションに何となく似ているような気がした。
入り口のチタン合金製ハッチには、がっちりと日本語で刻印が施されている。
《(株)鴻救命/フィオルクヒルデ基地局/いつも笑顔で、ご安全に!》
そのハッチをくぐりながら、真朱孝太郎は頬を紅潮させた。
「ここが……ここが……」
「おう。ここが俺らの職場、『ゲッキュー』の基地だ」
と、葡萄染隊長が言った。
月面救難隊。略してゲッキューだ。
現在、月面開拓は大いに進みつつある。資源採掘、観光、軍事目的などなど。かつての『宇宙飛行士』のような、ごく一握りの超エリートだけが月を訪れる時代はとうに過去のものとなっている。
そしてたくさんの『普通の人々』が集まれば、事故や事件が必ず起きる。
そう、必ずだ。
そのための救命チームが月面救難隊、通称『ゲッキュー』だった。
長い間の目標だった『ゲッキュー』の待機所に、はじめて入る。孝太郎は緊張で喉をごくりと鳴らした。以前に見た公式動画では、この先の壁面に部隊の標語が掲げられているはずだった。
《苦しい》
《疲れた》
《もうやめた》
《では》
《人の命は》
《救えない》
大昔の、それこそ昭和か平成の時代、どこかのすごいレスキュー隊で使われていた言葉らしいと、孝太郎は聞いている。この標語を思い出すと、先人たちの想いと志を感じ、身の引き締まる気持ちになっていた。
だがいま、その標語があるはずの壁面には、小さめのホワイトボードが貼り付けられていて、しかも黒マジックの手書き文字でこう書いてあった。
《今週の晩のメニュー》
《月・チキンライス》
《火・生姜焼き定食》
《水・からあげ定食》
《木・中華風焼きそば》
《金・ポークカレー》
あの標語は影も形もない。
孝太郎が絶句している横を、葡萄染克也はするりと漂い通り抜け、『おお。きょうはからあげか』と呑気につぶやいていた。
「あの、隊長……」
「ん?」
孝太郎は例の『苦しい、疲れた、もうやめたでは――』の標語のことをたずねてみた。
「ああ、あれか」
葡萄染隊長はため息をついた。
「ずいぶん前、あの標語がどこかのSNSだかに投稿されてな。で、社会正義が大好きなヒマ人どもから『前時代のパワハラだ』だの『ブラック職場だ』だのと叩かれて、上から『消せ』と言われてこうなった」
「そんな……」
真朱孝太郎が失望していると、葡萄染はそっぽを向いてこう言った。
「……ということに、なっている」
「え?」
「気にすんな。こっちだ」
葡萄染隊長は通路を漂い、進んでいく。無重力の勘もずいぶん取り戻したみたいで、危なっかしい動きはなくなっていた。
ゲッキューの基地局は実用一点張りのつくりで、やはり前時代の軌道ステーションを髣髴とさせる点があちこちにあった。
まず、せまい。
ハッチもシャフトも、男二人がすれ違うには触れあうくらいの距離だ。空調パイプや電気ケーブルもむき出しで、あちこちの壁面には気密漏れの修繕跡と、責任者の承認サイン入りのシールが貼り付けてある(一〇年以上前のものまであった)。
修繕跡のサインだけでなく、その他の貼り紙もやたらと多い。たとえば――
《逃げるな、放射線検診! クリーンな検査体制に協力を》
《まさかの時の太陽フレア! VRでしっかり避難訓練をネ/たいようクンからのお願い!》
《紀州南高梅・格安販売中/第二物産コーナーにて》
ちなみに『たいようクン』は保健省のマスコットキャラだ。まんま太陽に手足が生えているが、あまり可愛くない。
その基地局は整理整頓されているし、清潔でもある。だがなんというのか、とにかく貼り紙が細かくてうるさい。
孝太郎はこういう場所を以前に地球のどこかで見たことがあるような気がした。基本の内装はシンプルなのに、あちこちにベタベタ貼られた日本語の注意書きやうるさいポスターのせいで、いろいろと台無しな感じが漂っているあの施設。
それは、あの、そう、ええと――
「健康ランドみたいですね……」
たしかに月軌道ステーション『フィオルクヒルデ』内のこの区画だけは、関東でいったら町田とか春日部とか、郊外の幹線道路沿いにありそうな健康ランドだった。すごくダサいんだけど妙にくつろげる、あのムード。
そんな孝太郎の『健康ランド』の一言に、葡萄染が鋭く反応した。
「……おい。いまなんつった?」
「え……」
「マホソ。いま……この職場を見て健康ランドって言わなかったか?」
「その……い、言いました。あと自分の名前はマソホです」
おそるおそる認める。
怒鳴りつけられるかと思ったが、葡萄染隊長は孝太郎の肩を『ばしっ』とつかんで、
「だよな!? やっぱそう思うよな!? この内装見て、昔からそう思ってたんだよ!」
と、前のめりではげしく揺さぶってきた。
「だれに言っても『はあ? どこが健康ランドだよ』みたいな顔されてな。がっくりしてたんだけど……。真朱おまえ、見込みあるじゃねえか。いいレスキューになれるぞ! おい!」
「は、はあ……」
そんなことでいいレスキューになれるのだろうか? なれたらいいけど。でももしかしてこの隊長さん、実はものすごくアバウトな性格なのでは?
不安を感じつつ、孝太郎が曖昧な顔をしていると、通路の奥から勤務中の隊員がぬっと姿を現した。
「克也。おかえり」
野太いが穏やかな声。歳のころは葡萄染隊長と同じくらいか。長身の葡萄染よりも、さらに大柄で筋肉質。ぴちぴちのTシャツから大胸筋がはちきれそうだ。
「勇吾。変わりはねえな?」
勇吾と呼ばれた隊員は、鷹揚にうなずいた。
「三時間前に一隊が救急搬送に出動してる。五隊もだ。黒点の注意報は出てるが、まあ大したものじゃない」
「群青と刈安はどうしてる?」
「あの二人はレヴァニアでまだ研修中。ここにはいないよ」
「お前はヒマそうだな」
「操縦士の予備でいるだけだから。何もなきゃ、ヒマだよ」
「そうか。当直は来週からだったな。それまでに勘を取り戻さねえと……」
「出動したくてウズウズしてるみたいだな……」
その隊員と葡萄染隊長は顔なじみのようだった。いやそれどころか、もっと気心の知れた古い関係のようにも感じられる。
「そこの彼は?」
孝太郎を一瞥して、巨漢がたずねた。
「今度入る新人だ。えーと……ま、まそ、まほ……どっちだった?」
「真朱孝太郎です」
「そうそれ。まそほ、こうたろう。つか聞いたことねえよそんな名字」
「はあ……」
困惑顔の孝太郎に、巨漢の隊員は笑顔で握手を求めてきた。
「どうも、真朱孝太郎くん。三隊で副隊長を務めている、常盤勇吾という者です」
「は、はい。よろしくお願いします!」
孝太郎はあわてて敬礼してから、常盤副隊長とギクシャクと握手した。こんなベテランの人が、やさしく接してくれるのが意外だったので、どう対応したらいいのかわからず落ち着かなかった。
「ん……?」
孝太郎の手を握りながら、常盤勇吾は目を細めた。
「真朱くん。きみ……意外と握力あるね?」
「あ、ありがとうございます」
「筋トレとか、してる?」
「し、仕事に必要な程度には……」
「そうか。じゃあ、これから一緒にがんばろうな、真朱くん」
「……? は、はい」
常盤のやさしい口ぶりに、なにか釈然としないものを感じながらも、真朱孝太郎は背筋を伸ばしてそう答えた。
「気をつけろよ、マソホ」
葡萄染隊長が言った。
「勇吾はオールドスタイルの筋トレ屋だからな。スクワット三〇〇回とか付き合わされるぞ」
過去、無重力空間での筋骨の衰えを防ぐため、毎日のトレーニングが必須の時代が長かった。現代では簡易な薬物療法とインプラントのおかげで、そこまで筋力維持に気を使わなくても大丈夫になったのだが、宇宙生活者の間には未だに『筋トレ至上主義』みたいな風潮が残っている。
常盤勇吾はくすりと笑って、孝太郎の肩をつかんだ。
「ははっ。三〇〇回なんて大げさだよ」
「はあ……」
「だいいち、デタラメな筋トレは逆効果だ。スクワットなら、一分の休憩を挟んで、キツめの三〇回を三セット――を三本くらいかな」
「あの、それ、合計で二七〇回っすよね? ほぼほぼ三〇〇回では……」
「うん。まあ、そうかもね」
笑いながら常盤は待機所の奥へと引っ込んでいった。
「さあて、と……」
葡萄染はロッカー室に入ると、こなれた調子で手荷物をしまい始めた。地球でもよく見かけるような安物のアルミ製ロッカーだったが(ただしそのアルミ合金は純・月面製のはずだ)、内部にはびっしりマジックテープが貼り付けてある。
見ると隊長の手荷物――下着や筆記具、電子端末や食器などすべてにも、マジックテープの切れ端が付けてある。無重力空間で細かな備品がどこかへ飛んでいくのを防ぐための工夫だ。このあたりは地球低軌道のステーションと変わらない。
孝太郎の無遠慮な視線に気づいて、葡萄染が言った。
「なにジロジロ見てんだ」
「なにか勉強になるかと思いまして……」
「勝手に触るな。嗅ぐな。つーか、人の下着をまさぐるな……!」
衣類に鼻をあて犬みたいにフンフンといわせている孝太郎から、葡萄染は自分のタンクトップをむしり取った。
「あの」
「次はなんだ」
「自分のロッカーはどこになるんですか?」
「知らん。空きロッカーなら、そこらにある。勝手に使っとけ」
葡萄染が部屋の片隅の空きロッカーを指さす。名札の部分は空っぽ。だが歴代の使用者が安物のシールをベタベタ貼っては後任者が剥がすことの繰り返しだったようで――シールの剥がし跡が見苦しい状態だった。
「うわ……」
この剥がし跡をちまちまと、きれいにむしっていたら、シャトル出発までの四時間半を退屈せずに過ごせるかもしれない――孝太郎がそんな想像をしていたそのとき、甲高いアラーム音が室内に響いた。
「?」
それほど大きな音ではない。端末の呼び出し音よりちょっと大きい程度。しかしやけに耳に残る、断続的なアラーム。
「隊長? これは……」
そう訊ねようとしたときには、すでに葡萄染はロッカー室を飛び出しているところだった。返事さえしてくれない。孝太郎はすこし迷ってから、彼の後を追って隊のメインオフィスへ入っていった。
一〇席分くらいあるオフィスの空間はほとんど無人だったが、その片隅であの筋トレマニア――常盤勇吾副隊長が、葡萄染隊長となにかの相談をはじめていた。
「通報の場所は?」
「第四管区。ファント・ホッフの採掘基地近くだ」
と、常盤が答えた。
「……作業中の有人ローバーで支障事故が発生。主電力を喪失。自力での基地への帰還を断念。現在、予備電力を使用し救助を待っている」
オフィスのディスプレイ端末に事故の詳細が表示されている。『該船』の所属と名称、緯度経度、通報の時刻、クルーのEVA資格の有無、エトセトラ、エトセトラ……。
「近くのロボットはどうした」
と、葡萄染がたずねた。
「そのロボットが壊れたから修理に向かっていたそうだ」
「これだよ。……予備電力の残りは?」
「ほぼ八時間。普通ならまあ、大丈夫なレベルだろうが……。ちょっと心配だな」
「鴻は当直が出払ってる。アストロエイドも、ちょうど手一杯なんだろ?」
アストロエイドというのは、北米系のもう一つのレスキュー企業だ。極軌道が鴻救命、赤道軌道がアストロエイド社と大雑把に分担しているが、必要ならばどちらもどこにでも派遣される。
「ああ。このままだとこのローバーの人たち、かなり待たされそうだ。しかもファント・ホッフは夜が近い。あと六時間くらいか」
現地は昼だが、もうじき夜になる。電力不足のまま、夜の月面に取り残されることは悪夢だ。太陽電池が使えない上、超低温が襲ってくる。機材を守るヒーターだけでも電力を激しく消費するので、予備電力だけだとすぐに足りなくなるだろう。
月面の事故死者で一番多いのは酸素不足による窒息死ではない。電力不足による凍死だ。
問題のローバーは今から節電をはじめておけば、夜になっても四、五時間くらいはもつだろう。それまでに予備電池は届くだろうが、誰かがわざわざ夜の月面に着陸しなければならなくなる。
夜の月面――
孝太郎の脳裏に、思い出したくないものが浮かぼうとして、すぐに消えていった。
目を閉じ、眉間に皺を寄せ、深く息を吐く。葡萄染たちは事故ローバーの資料に集中していて、その様子には気づかなかった。
「仕度しておこう」
そう言って葡萄染は自身の端末を操作しはじめた。常盤が怪訝そうな顔をする。
「仕度? 無理だろ。二人しかいないのに」
「念のためだ」
「念のためでも、二人じゃ無理だ」
鴻救命のいまの体制では、もう救助隊は用意できない。当直の隊は二隊とも別件で出動中だ。
常盤は当直隊のバックアップのためにいただけで、葡萄染を加えても二名だ。そして規定では、出動の最低人数は三人と定められていた。
「まさか……」
葡萄染の意図に気づいたのか、常盤が口の端を引き結んだ。
「克也。彼を連れていく気か?」
「資格は持ってる。員数合わせにはなるだろ」
「ド新人だぞ。それに着任の手続きは? まずレヴァニアの本部にいくのが普通だろう?」
「法律で決まってるわけじゃねえ。本部から許可はとれるよ」
それでも常盤は食い下がった。
「夜が近いんだぞ」
「その前に帰れるだろ」
葡萄染はのんきな声で答えた。
「……おう、新人! マホソ!」
孝太郎は思わず背筋を反らした。
「は、はい! 真朱です!」
「どっちでもいい。ついて来な」
雲行きがおかしくなってきた――それだけは孝太郎も察していた。葡萄染はロッカー室へとまっすぐ飛んでいき、その中のひとつのロッカーを開けると、EVAスーツ(宇宙服)のインナーを投げてよこした。
「これを着ろ」
「おわっ……!」
どさっと受け止める。無重力だが重い。でかい。
EVAスーツのインナーは、ただの下着ではない。薄手に見えるが、温度調整、気密保持など、ほとんどの宇宙服の機能を(最低限だが)受け持っている。このインナーを保護・増幅する『アウター』と呼ばれる服をその上に着ることで、EVA(船外活動)を行う。昔はLCVG(液冷式換気下着)という冷却用の下着を着なければならなかったが、ナノ素材の進歩でこのインナーを着ればよくなっている。
「インナーの着方はわかるな?」
「はい。何度も、訓練で……あ」
その時、孝太郎はインナースーツの内側――その背中側に刺繍が入れてあることに気づいた。日本語だ。
《苦しい》
《疲れた》
《もうやめた》
《では》
《人の命は》
《救えない》
あの大昔の救難隊のモットーが、こんなところに。たぶん備えのEVAスーツには漏れなくこの刺繍があるのだろう。「社会正義」へのささやかな反抗だ。
孝太郎は感激したが、それもほんの一瞬の間だった。
「まず服を脱げ。三〇秒待ってやる。はじめ」
葡萄染は腕時計を見た。
「あのう、あの……?」
「あと二五秒」
孝太郎はあわてて服を脱ぎはじめた。いまはただの私服だ。シャツをむしるように、スニーカーとチノパン、靴下をほとんど同時に脱いだ。だが葡萄染はカウントをやめない。
「あと一〇……九……」
「え? え?」
「パンツも。……五……四……」
「ああ!」
なんとかブリーフを三秒で脱ぐ。全裸だ。そこはロッカールームではあったが、ひどく落ち着かない気分になる。
「じゃあこれ着けろ」
葡萄染は孝太郎の裸など気にもせず、新品のビニールパックを渡してくる。開けるとダイパーが入っていた。ダイパー――つまりオムツだ。下着と変わらないくらいのサイズだが、高分子素材でたっぷり尿をキャッチできる。
「は、はい」
ダイパーを着けると、葡萄染はまた腕時計を見た。
「じゃあインナーを着ろ。一分以内に着用して報告。できなきゃお前はクビだ」
「え?」
「いくぞ。3、2、1……はじめ」
「あの、あの」
そばに漂っていたインナースーツ――その上下すら分からずお手玉をする孝太郎に、葡萄染は冷たく言った。
「冗談じゃねえぞ。ホントにクビだ」
「あわわ……」
孝太郎はインナーを振り回して広げ、足首のファスナーをどうにか見つけた。だが、訓練校で使っていたインナーとモデルが違う。ロックの解除方法がよくわからない。
「あと五〇秒」
「…………っ!」
ファスナーが一世代前のものだと、どうにか孝太郎は気づいた。分かりづらい位置に隠れているリリース・スイッチを押し込んで引っ張る。
「あと四〇秒!」
下半身が大きく開いたインナースーツに首を突っ込み、あたふたと袖を通そうと悪戦苦闘する。だがうまくいかない。訓練ではやれたのに。なぜだろう?
「三〇秒!」
絶望的な気持ちでジタバタしてたら、なぜかインナーの袖に腕が通った。理由はわからない。とにかく急げ。
「二〇秒!」
四肢をスーツに通し、下半身のファスナーを大急ぎで閉鎖する。何度か引っかかる。だが完了。
「あと一〇秒……九……」
「き……気密よし!」
「八……七……」
「電力よし!」
「六……五……」
「通信よし!」
「四……三……」
「すべてよし! 着用完了!」
どうにかこうにかインナースーツを着終えた孝太郎は、気をつけの姿勢で叫んだ。
「ギリギリじゃねえか」
「も、申し訳ありません!」
とはいえ、宇宙服が(インナーとはいえ)一分で着られるようになったのも技術的には驚くべきことなのだが。昔はもっと大変な作業で、手助けをしてもらっても三〇分以上かかる時代だってあった。
葡萄染は孝太郎の胸ぐらをつかんで、ぐいぐいとゆする。きちんと気密が確保されているのか点検しているのだろう。
「どおれ……気密よし。電力よし。通信……よし」
「ほっ……」
「だが、ここで何らかの緊急事態が起きたと想定する」
安堵した瞬間、孝太郎は壁に叩きつけられた。はげしい衝撃。二度、三度、四度。まるで長年の宿敵を追い詰めたような勢いだった。
「た、隊長……!? あの、あの!?」
「まだまだ。せえーの……!」
背負い投げの要領で、葡萄染がぶん投げる。孝太郎の体は、天井やら床やら壁やらにぶつかって跳ね回り、はげしく回転した。
「がはっ!」
「よーっし。マソホ隊員! 改めて船外服の点検と報告! 一分以内!」
「あわっ……あわわ……」
「聞こえんのか!? 船外服の点検と報告!」
孝太郎は混乱した頭でEVAスーツの点検をする。
気密よし。電力よし。
だが通信に問題あり。
EVAスーツが『フィオルクヒルデ』のネットワークに接続できていない。原因は不明。自分の端末は使えない。通信できないからステータスのチェックも不可能。何度も接続を再試行するが、うまくいかない。
「どうした? マホソ!」
「マソホです。通信が……その……」
「んーーー、聞こえんなあ? 通信、死んでるんだからな。お前がなにをジタバタしとるのか、俺にはさっぱりわからんぞ!?」
「ええ……あの……あの……」
「もしもーし! マホソ隊員! 聞こえますかー!? あと四〇秒!」
マホソじゃない、マソホです――と言おうかと思ったが、やめておく。どうせ言っても聞こえないという『設定』だから。
孝太郎はひたすらスーツをチェックする。ソフトウェアの問題ではなさそうだ。スーツのハードウェア、それもきわめてシンプルなトラブル。なにかの部品に支障、あるいは欠損が生じて……。
「あと三〇秒!」
「隊長。その手に握ってるのは何ですか?」
孝太郎は葡萄染隊長の手首をつかんだ。指と指の隙間から、ちらりと一〇円玉サイズのチップが見えた。
EVAスーツの通信部品のスロットに入れるはずの、SIMカードだった。このカードがなかったら、基本的な通信機能がほとんど使えなくなる。
「さすがに気づいたか」
にこりともせず、葡萄染隊長は言った。
「い、インチキじゃないですか!?」
「うん。でもあと一〇秒。九。八……」
「ちょっ……」
孝太郎は隊長からあわててカードをひったくると、スロットに差し込み通信機能を再起動した。
「通信よし、すべてよし! 点検完了!」
本当は再起動なんて間に合ってなかったのだが、もうこの際だからデタラメで『通信よし』と言ってしまった。バレたらクビだが、待っててもクビだ。もう知るか。
「おう」
葡萄染は孝太郎に近寄ると、襟首やら脇腹やらあちこちを叩いたりつかんだりした挙げ句、何度も『うーん……』だの『まあ、でも……』だのとひとりでぶつぶつ逡巡して、最後に深いため息をついた。
「よしマソホ。来い」
「はい。って、どこへですか……?」
「決まってる。降下艇だ」
降下艇!?
ようやく孝太郎は理解しはじめた。
この隊長は自分を本気で『実戦』に連れだそうとしているのだ。
鴻救命の降下艇は、基地局オフィスのすぐ隣、〈フィオルクヒルデ〉の下部のエアロック群の一つに連結されていた。その気になれば一分で出動できる距離だ。
降下艇は与圧されていない。
コックピットもキャビンも真空の宇宙空間に曝露されており、乗組員はむき出しのまま月に着陸し、また軌道に戻る。救命目的の降下艇なので、機動力と稼働時間をぎりぎりまで稼ぐためだ。与圧エリアやエアロックなど、重量のかさむ設備はことごとく省略されている。要救助者のために、オプションでバルーン方式の与圧ブロックを積むこともできるが、普段は使わない。
軌道から月面まで、たいていは数十分程度で着いてしまうから、それでいいとされている。
孝太郎はEVAスーツのアウター(昼間月面服)を着ると、エアロックを出て、降下艇に乗り込んだ。
その降下艇は中型のヘリコプターくらいのサイズだった。
上半分がキャビンとコックピットで、下半分がエンジンと燃料タンク。大ざっぱな構造はアポロ着陸船とよく似ている。分離はしないし、スペックは比べものにならないが。
一方向に耐放射線用のシールドはついているものの、隙間だらけのキャビンだった。その狭苦しく心細いキャビンの座席(……というほど座る姿勢ではなかったが)に、孝太郎はシートベルトでくくりつけられた。
「真朱孝太郎。おまえは何もしなくて付いてくればいい。いわばお飾りだ」
葡萄染隊長は言った。すでに真空下なので、無線会話だ。
「あの、隊長、これは……」
「有人ローバーに電源不足の要救助者二名。放っとくと命に関わるかもしれない。なので、どうしても俺たちが出動しなけりゃならん。レスキューの規定では三人以上が出動の条件だ。以上が素人同然のおまえをつれていく理由だ」
「でも……」
「話は終わり。以上!」
それだけ言って奥の副操縦席へ行ってしまった。つづけて入ってきた常盤副隊長も、ていねいに各部を点検してから、さっさと操縦席へ向かってしまう。
使えるかどうか分からん新人のことなんぞより、大事なことは山ほどある、ということだろう。
「B3装備でいいんだな」
年季の入ったシートベルトを通しながら、常盤勇吾がたずねた。
「それでいい。それと予備電源のみ」
「了解」
そのおり一同の端末がアラーム音をかなで、出動情報が表示された(降下艇の方のディスプレイ端末は『故障中』の張り紙が貼ってあった)。
『出動要請』
『第四管区/ファント・ホッフ南部/北緯61度41分 西経127度30分』
『1625時(協定世界時)』
『発:(株)西坂ディベロップ 宛:(株)鴻救命』
『該船:ラビット6型〈ニシサカ213〉 乗員:2』
などなど。要救助者のローバーや細かいデータもその後に続く。
「そら、許可も出た」
「錫のオヤジさん、お前には甘いよな」
葡萄染が口笛をふき、常盤がうなる。『錫のオヤジさん』いうのは鴻救命の本部長のことだった。
「まあ一応、昼だし。バッテリー届けるだけだし。休暇明けでブランクを埋めるにはちょうどいいだろ?」
「まあ、そうかもしれないが……」
「じゃあ行くぞ」
そこから先は早かった。出動の契約と降下艇のチェックはほぼ同時に終了し、その他の点検も三分以内にほとんど終わった。
「最適の軌道は」
「あと四分ちょっと。本来なら五〇分待つところだが……」
「いっちまえ、いっちまえ」
「わかったよ。……FLBコントロール、こちらオオトリRSI、G16、コールサイン『オオトリC』。救難要請に基づき優先発進を許可願う……」
管制所から優先発進の許可をとり、待機中の降下艇は発進した。一隻の降下艇と三人乗員の重量を失った『フィオルクヒルデ』は、自重を補正にかかる。
彼らの降下艇――ただ単に『一六号』と呼ばれていた――は、秒速三〇センチでステーションから遠ざかっていく。第二区画に入ったところで秒速一・五メートルに。第三区画で秒速六メートルへ。
「あの、あのあの。この降下艇、ステーションが遠ざかって見えるんですけど」
キャビンから孝太郎が言った。
「そりゃそうさ、遠ざかってるんだから」
もう最外殻の古びたソーラーパネルを通り過ぎた。その先は真っ暗闇の空間だけがひろがっている。
フィオルクヒルデはあっという間に彼方へと離れ、周囲はなにも見えなくなる。
ここは月の低軌道だが、いまは夜の側だった。誰もが知っているような月の景色は、まだここからは見えない。
「真っ暗です。月はどこですか?」
「目の前にあるだろ」
「ええ?」
降下艇に窓はない。放射線避けの壁以外は剥き出しのフレームだ。その向こうは宇宙空間だけ。
闇、闇、闇。
暗闇の世界だ。
星さえ見えない。
「いや、だって……」
孝太郎はまだ月を間近で見ていなかった。葡萄染と出会った月へのシャトルはコストパフォーマンス最優先なので窓もついていない便だった。月ステーションに着いた後も、観光用の展望室に出かけることもなかった。
本物の月を間近で見ていない。
葡萄染はその事情を察したらしく、操縦席の常盤に目配せをした。
「じゃあサービスだ」
「…………?」
降下艇の姿勢制御装置――リアクション・ホイールが駆動し、ゆっくりと機体がロールする。本当に緩慢な動きだった。
「見ていろ。あと一〇秒くらいか……」
「なにがです……?」
「これだよ」
そのとき、極軌道から離れつつあった降下艇が、昼の側に入った。突然、孝太郎たちの眼前に真っ白な光が差し込んだかと思うと、やがてもっと大きな灰色のなにかが広がり始めた。
「あ……」
今まで星ひとつない暗闇だと思っていたのは、月だったのだ。
降下艇の高度はわずか一万メートル。そのむき出しの席から見た、月面の広さといったら。いきなり視界の大半が大地に塗り替えられ、太陽が照りつける灼熱の砂漠があらわれる。
たくさんの灰色。
思ったよりもずっとカラフルだった。妙な表現だが、黄色い灰色、青い灰色など無数の色で彩られ、それが集まることでいわゆる『月の色』がかたちづくられているのだ。少なくとも彼の目にはそう映った。
「これが……」
孝太郎はそうつぶやくのがやっとのようだった。
そう言っている間にも、彼らの眼前に昼間の領域はひろがってゆく。そのたびに新しい灰色が生まれ、煌めき、混ざりあってゆく。
「来てみてよかっただろ?」
「は……はい。もっと……こう……」
「もっと、なんだよ?」
「もっと、つまらない場所だと思ってました」
孝太郎の感想をきいて、常盤勇吾は笑っていた。だが葡萄染克也は、なぜだかクスリともできないようだった。
三人を乗せた降下艇が降りていったのは、昼の側だった。
ここは月の裏側なので地球は見えない。この裏側の岩たちは、何十億年の昔から一度も地球を見たことがない。これからもそうだろう。
そこはファント・ホッフ・クレーターにある、低めの山々が連なる一帯だった。『山々』といっても、月の造山活動は数十億年前に止まっている。代わりに地形の複雑さを生み出しているのが、隕石の衝突でできたクレーターだ。
直径数十キロを超える巨大なクレーターに挟まれた山地は、地球では考えられない様相を見せる。高低差も激しい。
そうした険しい地形でこそ、希少な資源がよく採掘されるというのも皮肉な話だった。その採掘基地の一つがこの近くにあるのだ。
降下艇は、遭難したローバーの一〇キロ南に降下していった。
一番近い安全な着陸場所がそこだったのだ。最悪の場合は直接上空からラペリングで降下する方法もあったが、今回はそこまでの緊急性はなかった。
ただし――
「手動で着陸?」
孝太郎は耳を疑った。降下艇を手動着陸させるというのだ。
「現場では当たり前だ。覚えとけ」
葡萄染が言った。
「でも自動操縦の方が安全です。なんでまた……」
「自動に任せとくと、目標の近くに着陸できない。なにがなんでも『安全』じゃないと駄目だってな。いまも――ほれ」
地図の表示を見せる。自動操縦が『着陸可能』とする座標だと、遭難中のローバーから三〇キロ南東の採掘基地の離発着場が一番近かった。離発着場は確かに安全だが、これでは陸路で四時間か五時間くらいはかかってしまうだろう。
「そういうわけで自動操縦は使わない。以上だ」
葡萄染は言うと、副操縦席にふんぞりかえった。一方で操縦席の常盤勇吾は真面目な顔でスティックを微調整している。
第四管区の管制所にも手動着陸を伝え、許可が出る。どうやら本当に現場では珍しくないようだった。
「これより手動操縦に切り替える。――アイ・ハブ」
と、常盤が宣言する。
「ユー・ハブ」
と、葡萄染が追認する。
「LZ(着陸地点)アルファまで三〇〇〇を切った。燃料よし。推進よし。最終減速に入るぞ」
「燃料よし。推進よし。第四管区の管制所からも確認が出た。よろしく、機長殿」
副機長の葡萄染はのんきなものだ。
「まったく……たまにはおまえが操縦しろよ。腕がなまっても知らないぞ」
「大丈夫だって。おまえがいるから」
「これだよ。……アルファまで二〇〇〇」
「アルファまで二〇〇〇」
降下艇のモニタは壊れているので、頼りの計器類はそれぞれの端末の表示だけだ。その数字だけを頼りに、常盤はピッチング、ローリング、ヨーイングを操って減速を続けてゆく。もちろん細かな制御は機械任せだが、最終的な意思決定は常盤に任されている。
降下艇は真空なのでエンジンの騒音は直接は聞こえない。だがシート越しに伝わってくる振動から、激しい噴射は感じられた。
「アルファまで一〇〇〇。ギアダウン。降下を実行」
「ギアダウン。降下を実行。確認した」
葡萄染が復唱する。隊長ではあるが、降下艇では副機長なのだ。飛行中の最終的な判断は常盤勇吾が下すことになる。
「LZアルファを目視した。周囲に異常なし。降下速度は二〇。高度五〇〇……四〇〇……」
太陽の光に強く照らされて、斜長石の大地が白く輝く。大気がないので肉眼ではうまく距離がつかめない。地上への距離は機体のレーザー測距計が頼りだった。
「三〇〇……二〇〇……」
「降下速度は一〇」
小刻みにスラスターが働く。右へ左へ機体がゆっくり揺れ動く。
「一五〇……一〇〇……」
「降下速度は五」
自動操縦かと思うくらいの正確な動きだった。
「八〇……六〇……」
「気をつけろ、けっこうでかい石っころがあるぞ」
「ロールしてよける。四〇……三〇……」
右に軽くロール。着陸脚が岩石を避ける位置にくる。そのまま降下。
二〇……一〇……。
「着陸」
最後は淡々としたものだった。二、三度スラスターをふかした後、降下艇は停止した。
「着陸灯点灯。MPU。MSU。完全停止。APUは稼働中」
常盤が告げ、葡萄染が復唱する。他にも着陸後の点検項目をそれぞれチェックし、管制所もその情報を追認し、最後に常盤が『着陸完了』を宣言した。
「ほれ、着いたぞ」
「ご苦労、ご苦労」
やや傾斜しているが開けた場所だ。それでも大小の岩は数多く見受けられるし、北側には大きなクレーターもある。
「よし、真朱。ここで待ってて欲しいのは山々なんだが、そうもいかない。『二人一組の原則』はもちろん知ってるよな?」
船外活動のイロハのイだ。その名の通り、船外活動をする者は必ず二人一組で行動しなければならない。どんなに安全だとわかっていても、絶対に、だ。孝太郎も宇宙高専で一番始めに習った。
「は、はい」
「この『一六号』に残るのは操縦資格のある勇吾か俺……まあ大事をとって勇吾としておこう。そうなると、遭難中のローバーに行く二名は俺とお前になる」
一瞬、葡萄染隊長の言ってる意味がわからなくて、孝太郎はぽかんとした。
「た、隊長と俺ですか?」
「そういうわけだ、仕度しろ」
そう言って、『一六号』の外についているはしごを伝って下に降りていく。
あの葡萄染隊長とバディを組める。
それ自体は願ってもないことだったが、心の準備がまだ出来てなかった。だって、なにかヘマをやったら? 葡萄染隊長のがっかりした顔は見たくなかった。それどころか、任務中にため息をつかれるのだけでもなんだかつらい。
とはいえ、選択の余地などない。時間にして一〇秒くらいだろうか、孝太郎は逡巡していたが、決意を固めて外に向かっていった。
降下艇のキャビンは三階建てくらいの高さだった。真空世界の乗り物らしく、はしごが外部フレームに無造作に取り付けてある。なんならこの高さから飛び降りても大丈夫なはずだったが、怖かったのではしごを降りていった。
六分の一G。
足がふわふわとして、はしごを何度も踏み外してしまう。
「うーん、帰ってきたぜ。いつもの一歩だ」
すでに月面に降りた葡萄染が、ぴょんぴょんと軽く飛び跳ねていた。
まだ二階くらいの高さだったが、孝太郎は思い切ってはしごから離れて飛び降りる。
予想より早く落ちた。だが覚悟したほどの衝撃はなかった。
そしてもっと――怖いかと思ったが、何も感じなかった。そう、何も感じない。恐怖はもとより、喜びも驚きも。
一歩、後じさる。
足跡ができていた。ベビーパウダーみたいな砂。本物の月面だ。
ふと昔の言葉で『ニールには小さな一歩かもしれないが、自分には大きな一歩だ』というフレーズが思い浮かんだ。ニールというのはアームストロング船長のことだろうが、これは誰の言葉だったか? まあいい。確かに自分には大きな一歩だ。この一歩のために五年以上、努力してきたのだから。
周りの景色は思った以上に白かった。このあたりは斜長石が多いからだろう。地平線のやや上に太陽が強く輝いていたが、真空なので赤くはない。地球が見えるのではないかと思って暗い空を見回したが、ここは『月の裏側』なので地球は永遠に見えないことを思い出した。
通信を一瞬だけオフにして、孝太郎はつぶやいた。
「帰ってきたよ」
言って、すぐに通信をオンにする。
「やけに落ち着いてるな」
「いえ……そうですか?」
「さっきから思ってたんだが……月は初めてじゃないのか?」
葡萄染が探るような声色で言う。
嘘は良くない、そこは正直に言おう。
「はい。子供のころに、観光で。もちろんこんな風に、外に出たりはしませんでしたが」
「なんだ。どうりで……」
そう言いながらも、葡萄染の口ぶりからはわだかまりが消えていなかった。言葉にできない違和感を、孝太郎の様子から感じているのかもしれない。それが何なのかは、孝太郎自身にもよく分からなかった。
「つか、ガキのころに観光かよ。ひょっとして家が金持ち?」
「いえ。普通です」
「まあいいけどよ。これでアウターはレゴリスに汚染されたから。注意しろよ」
「はい」
月面の砂――レゴリスは、地球のそれとは異なり風や水の浸食を受けていない。数十億年間、ずっとだ。だからミクロで見るとほとんどが尖っている。月面産業の大切な材料にもなる一方、このレゴリスが人体や機械などに大きな害をもたらすのだ。
吸い込めば気道をずっと傷つける。
繊維類はあっという間にズタズタにする。
部品の隙間に詰まって使い物にならなくする。
レゴリスに汚れたアウターは、再使用されることもあるが、汚れがひどい場合はたった一度の使用でも処分される。
「よし。さっさと手伝え」
「あ、はい……」
葡萄染が外部ラックから小型ローバーを取り出しにかかる。二人乗りの装輪式・軽量タイプで、非与圧の露天式だ。ローバーというより原付バイクに近い。
「こっちはいいから。おまえはバラストをつめ」
この軽量ローバーは、単独では使い物にならない。月の重力は地球の六分の一。三〇キロのローバーがわずか五キロになる。軽すぎて地表との摩擦を得ることができず、車輪が空回りしてしまうのだ。
だから重りが必要になる。
重り? どこに?
もちろん周囲に、だ。大きな雑嚢(袋)に、岩や砂を手当たり次第に詰め込んで、ローバーに積載するのだ。重さは適当。ローバーの車輪が空回りしなければいいのである。
孝太郎は雑嚢とふた付きスコップを手に数メートル離れると、地面を掘り返した。スコップは持ち手を緩めると、ふたがしまるようにできている。そうしないと掘り返した土が、すぐにスコップから飛び出してしまうのだ。地球の道具が当たり前に使えないことが、ここには山ほどある。
慣れない手つきで雑嚢に石や土を詰め込んでゆく。あっという間に彼のアウターはレゴリスまみれになっていった。
まだ雑嚢の半分も埋めきっていないうちに、葡萄染が横に来て同じ作業にとりかかった。もう小型ローバーの組み立て作業は終わった様子だ。
「……あわてるな。自分のペースでな」
厳しいことを言われるかと思っていたが、意外にも葡萄染の声は穏やかだった。
「は……はい」
「それにここでミスられる方がいやだし」
「…………」
結局、孝太郎が雑嚢一つを満タンにしている間に、葡萄染は二つを満タンにして、三つめも半分以上は満たしていた。
「よし、もういいだろ。バラストを積め」
土や石で一杯になった雑嚢を軽量ローバーの荷台に運ぶと、二人はいそいそと運転席にまたがった。
「該船はここから北北西に八キロ。まあ、だいたい四〇分だな。いちおう道も拓けてるから、まず安全だ」
端末をいじって葡萄染が説明する。比較的に平板なルートだ。よほどのことがなければ、トラブルは起きそうになかった。
「『バッテリーを届けるだけの簡単なお仕事』だが、油断はするなよ」
降下艇の中から常盤勇吾が言った。
「どう油断するんだよ。ま、行ってくら」
「い、行ってきます」
何から何まで初めてのことだらけの孝太郎は、さすがに緊張して答えた。
二人乗りローバーが走り出す。
降下艇を離れてすこしの間はぎらつく太陽光の中を進んでいったが、すぐに真っ暗な谷間に入った。ローバーのライトもあるし、陽光を受けた地形も見えるので完全な闇ではなかったが、それでも驚くほどの暗さだった。
地形と経路を表示している端末を切ってみる。様々なアイコンも音声も。
(ああ……)
闇が近い。
それが肌で感じられた。EVAスーツの擦れるガサガサ音。シュコー、シュコーと繰り返される呼吸音。それ以外の感覚がなくなって、胸中にある種の懐かしさが押し寄せてくる。
心配していたようなパニックは来なかった。
(大丈夫だ。これなら……大丈夫)
このまま死んでも大丈夫。そんな気持ちさえ湧いてきた。
この暗闇で――何も見えない中で、自分の存在が消え失せてしまったとしても。
(いや……?)
ぼんやりと背中が見える。運転中の葡萄染の背中が。
その背中から、手や運転席のフレームを伝わって鼻歌が聞こえている。歌手は知らないが、やたらと陽気なロックンロール。
月の暗黒の中で。
場違いで、調子っ外れなロックンロール。
孝太郎は子供のころ、父の車に乗せられて夜の山道を走ったことがある。あの時の父の鼻歌を思い出した。曲はこんなロックじゃなかったし、乗っていたのも月面ローバーではなく古いハイブリッドのガソリン車だったが、なぜかその夜の道を思い出した。
夜の山道の、あの心細さ。
でもどこか楽しい。小さな冒険をしているような、あの感覚。
今はいない父の面影。
わけもなく前席の葡萄染にしがみつきたい気分になったが、やめておいた。どうせ怒鳴りつけられるだけだし。
かたや葡萄染克也はリラックスしていた。
ロックンロールも大好きだ。特に矢沢永吉。
克也にとってこの任務は『手頃な仕事』だった。数週間のブランクを埋めるのにちょうどよい、まず危険などない任務。ほとんど公園の散歩に近い。
この真朱孝太郎がどの程度使えるかは分からなかったが、とりあえず宇宙服の着方がわかっていればそれでいいのだ。それ以上の仕事は求めてないし、いざとなったらその宇宙服を減圧してしまえばいい。気絶した若造一人なら、なんとでもなる。
まさか上司がそんなひどいことを考えているとはつゆしらず、真朱孝太郎は後部座席で緊張に身を固くしている。まあ無理もない。昼間の月面だと思って降りたら、谷間だらけでほとんど真っ暗なのだから。本物の夜の怖さには及びもつかないが、初心者には少々落ち着かない地形かもしれない。
鼻歌にも飽きて退屈な時間が過ぎたころ、該船がいきなり見えてきた。
該船――救出対象の乗り物はローバーでもこう呼ぶ――は、路肩に乗るようにして遭難していた。
路肩と呼ぶべきかは微妙だが、とにかく『路』というものがあるとしたら、あれが路肩だろう。一〇メートルほどの右手に深い崖があったが、とりたてて危険には見えなかった。
車名はトヨナカ製のラビット6型。どこにでもある中型の六輪式与圧ローバーだ。装輪式のローバーは比較的に開発の進んだ地域ではよく使われる。道が切り拓かれているならば、タイヤの方が効率がいいからだ(克也たちのローバーが装輪式なのは、降下艇に積む必要があるからだ)。
そのローバーは左側の窓が二つほど潰れてチタンの板におきかわっているのを除けば、なにも変わったところはない。
「とても遭難しそうな場所には見えません。ぱっと見たところ……ですが」
「近づいてみなきゃ分からん」
克也は該船に連絡してみた。
「こちら鴻救命、OT35。ニシサカ213、感明度おくれ」
『こちらニシサカ213。鴻救命、OT35。メリット・ファイブ』
該船から応答。日本語だ。与圧ローバーなので中は見えなかったが、日本人が二人乗りこんでいると端末には表示されていた。
『やっと来てくれたか。情けない話だがホイールが空転してバッテリーを空費した。予備の電力も残りわずかで……』
「それは災難でしたね」
克也は通信を切ってから『へぼめ』とつぶやいた。
砂地に足場を取られるのは仕方ないにしても、バッテリーを使い果たすか? いや、そういう素人同然の人材がゴロゴロいるのがいまの月面なのだ。
大昔はこんな事故などあり得なかった。誰も助けに来ないから、クルーは常に慎重で賢明だったからだ。もしいまアポロ13号が飛んでいて、あの有名な事故が起きたとしても心配はいらない。月軌道で鴻救命が待っている。13号は酸素も電力も好きなだけ補給できるだろう。
『はやくどうにかしてくれよ。デートの約束に今なら間に合うかもしれないんだ』
「……ちょっと車の周りを見ます」
小型ローバーを停止させ、一人で降りる。真朱には待っているように告げた。
そのローバー――ラビット6型に目立った外傷はなかったが、姿勢がやや左斜めに傾斜していた。車輪が砂地に捕らわれているのだ。妙だと思ったら左側の中央の車輪が故障しているらしく、取り除かれていた。
あきれた。八輪ならまだしも、六輪で車輪の故障をほったらかしにするどころか、車輪を外すとは。
克也たちの乗ってきた救助用ローバーと違って、作業用ローバーの車輪はある程度重たく作ってある。降下艇に積む必要がないためと、空転を防ぐためだ。それを取り除いたら、車両の重量が足りなくなって、ちょっとの悪路でも難儀することになる。操作性もひどいものだろう。クレバスは一〇メートルも離れているので、直接の危険はないだろうが、それでもひやりとする。
「電源持ってきたんで。交換しますね」
克也がそう言っても、真朱はぼけっと小型ローバーにまたがったままだ。まあそうだよな。新人ってのはそういうものだ……。
「おい、新人。バッテリー。持ってきた奴、運んで」
「はい!」
真朱は勢いよく立ち上がって、積み荷の予備バッテリーを担ぎ上げた。
「どこに運びますか?」
当たり前の質問をしてくる。そんなもん、レスキュー対象に決まってるだろうに。
「車の左後方。外部バッテリーがあるから、それと交換する」
「はい」
真朱は言われた通りにローバーの左後方へ予備バッテリーを運んでゆく。克也は空転していた車輪の様子を見ながら、自身の端末を使ってローバーにアクセスする。
「すみません。車両システムにアクセスしたいんで、パスをください」
克也が頼むと、遭難者は露骨に面倒そうなうなり声を上げた。
『バッテリー交換するだけだろ? パスは要らないんじゃないか?』
「いえ。いちおうシステムのチェックはしておきたいので。お手数ですがお願いします」
『面倒くさいなあ』
って、おい。
人を月のこんな辺境まで呼びつけておいて、なにが『面倒くさい』だ? このまま放って置いて帰ろうか、こいつは。
そう言いたくなるのを我慢して、もう一度頼みこむ。
「お手数ですが、お願いします」
『いや、パスわたすと総務に報告したりいろいろ厄介なんだよ。その辺、なんとか適当にお願いできないかねぇ』
「決まりなので。どうしてもパスをもらえないなら、MDO(月面開発機構)の権限から強制アクセスすることになりますが」
『それは困る』
「こっちも困ります。ですからパスを」
強制アクセスを使うと後で書類が面倒くさい。
『実は減給されるんだ』
「知ったことじゃない。パスを」
『おい、その態度はなんだ? おたくはそういう口の聞き方をするのかよ?』
「すいませんね。いいからパスを」
『態度が気に入らない』
「じゃあ、強制アクセスしますね」
『待て待て』
そんなやり取りをしている中、車両の反対側にいる真朱孝太郎が信じられないことを始めていた。
与圧ローバーのハッチを開けようとしていたのだ。
いちおう、孝太郎は躊躇していた。
こんなことをしたら、クビになるかもしれない。いや、最悪逮捕だ。
だけど。
自分の直感が正しければ、一刻の猶予もない。いまこの瞬間にも、それは起きるだろう。警告しているヒマもない。
それに――最悪、自分の身の破滅なんだったら、いったい何をためらう必要があるだろう?
この俺の身一つなら。
孝太郎は決心した。
外部に据え付けられた緊急レバー、その開放ボタンを押し込む。緊急レバーが露出し、非常時の開放手順を表示させる。だが読んでる時間はなかった。
緊急レバーをつかんで、ひねる。
ビー、と音声が宇宙服内に響いた。最終警告の音だ。
本当に、本当に実行していいのか?
かまわない。
さらにレバーをひねる。
孝太郎の行為にやっと気づいた葡萄染が叫ぶ。血相を変えて――
「バカ。おまえ、何をして――」
与圧ローバーのハッチが開かれ、空気で満たされた内部が暴露された。音はしなかったが、大気があればきっとすさまじい轟音だっただろう。液化して霧になった空気が、きらきらと輝いていた。そしてローバー内部のクルーが一名、その霧と一緒に放り出されてきた。
宇宙服を着ないで?
いや、違った。そのクルーは非常用の簡易宇宙服を身に着けていた。歩くのがやっとのずんぐりした服だが、少なくとも真空下で命を守ってくれる。救助を受ける時は、可能なら簡易宇宙服を着ておくこと――そういう決まりがあるのだ。端末にも要救助者二名が簡易宇宙服を身につけていることは表示されていた。
とはいっても、無警告で与圧ローバーのハッチを開けるなど、普通の行動ではない。
簡易宇宙服を着たクルーは、そのまま放物線を描いてローバーの左舷へ吹っ飛んでいった。あの方向なら障害物もない。なだらかな丘になっているから大丈夫だろう。
「おまえ、いったいどういう――」
「雪庇です!」
「……!」
月で雪庇? だがその一言で葡萄染は状況をのみ込んでくれたらしい。
このローバーはいつ崩れ落ちてもおかしくない崖の縁にいる。
見た目では分からないが、ここはギリギリの崖っぷちなのだ。そしていつ百何十メートル崖下に落下してもおかしくない。
クルーの一人はいま安全な場所に送りつけた(手荒なやり方だが)。問題はもう一人。クルーはもう一人いる。
孝太郎は減圧を待ってから、車内をのぞき込んだ。
いた。
赤い簡易宇宙服。キャビンの奥、折りたたみ式のテーブルに挟まって、わけもわからずもがいている。引っ張り出さねば。一刻もはやく。
孝太郎はすこしもためらわずにキャビンへ入っていった。急な減圧で室内が散らかっていて歩きづらい。いや、そもそも自分は六分の一Gの超初心者だ。いま助け出そうとしている相手よりも、よっぽど――
キャビンの天井に何度もぶつかり、這うように、泳ぐようにして要救助者にたどりつく。通信は生きている。だが念のために互いのヘルメットを押しつけ、大声で叫ぶ。
「今すぐ脱出します! いいですね?」
『なにが……起きてる……?』
「外に出るんです!」
要救助者をつかんで外に戻ろうとする。だがなかなか動けない。簡易宇宙服がテーブルに挟まっていると気づくまで、一〇秒かかった。さらに要救助者がはげしく暴れて抵抗する。自分が要救助者だと理解していないのか。
「暴れないで……!」
『殺す気か、おい!』
「落ち着いて、ゆっくりと息を――」
『助けて、助けてくれ!』
端から見たらどちらが要救助者かもわからなかっただろう。真空のキャビンの片隅でもみ合い、怒鳴り合うだけの二人の男だ。
ああ、だめだ。このままじゃ――
そのとき、葡萄染が軽々とした身のこなしでキャビンに飛び込んできた。
「隊長?」
葡萄染は素速くクルーの背中に回り込むと、左腕と左腰のバルブ操作ダイヤルに手をのばした。数度バルブを開いて閉じると、宇宙服の関節部分に空気がたまって風船のように強く膨らんだ。
「……!?」
それだけで要救助者は手足がぴんと突っ張って、ほとんど身動きがとれなくなる。
「出るぞ」
軽々とクルーを背負って出口に向かう。突っ張った手足が引っかかるが、強引に引っ張り出す。葡萄染のその手際に感心するが、孝太郎は自分のことで精一杯だった。思ったようにローバーの出口へ近づけない。
(くそっ)
ローバーが一度、大きく傾いた。落ちかけているのだ。いや、落ちているのかもしれない。音はまったくしないが、砂が崩れ流されている振動は伝わってくる。
だが出口は遠い。
たったの数メートルなのに、足が望み通りに床を踏みしめてくれない。手が這うよりも空振りしてしまう。
葡萄染が戻ってきた。ローバーが傾いているのに、驚くほどの身のこなしで孝太郎の首根っこをつかむと、彼を一息でハッチへと引っ張りあげた。
孝太郎は無我夢中でローバーの外に出る。葡萄染もほとんど同時に後ろのハッチをくぐった。要救助者はすでに十数メートル向こうの、安全な場所に放り投げられている。
乗りこんだときは縦だったハッチが、いまはほとんど横になっていた。
ラビット6型ローバーは車体の右側を宙にむけ、崩れる砂と一緒に、一〇〇メートル以上はあろうかという暗い崖下にいましも飲みこまれようとしていた。
孝太郎の身をぐいっと引き起こし、葡萄染が叫んだ。
「とべ!」
視界の片隅に安全な丘陵が見えた。もう何も考えない。そんな余裕などまったくない。言われた通り、跳んだ。
想像していたよりもはるかに高く、遠くへと跳躍した。自分が超人かなにかになったかのように、一瞬、勘違いしたぐらいだ。
暗闇の空中を、じたばたとする。もうどこが上かも分からない。だが次の瞬間、盛大な尻餅をついた。とんでもない痛さだったが、どうにか生きている。
横には葡萄染が着地していた。
奥には要救助者のクルー二人が縮こまっている。
そして背後を振り返ると――ラビット6型ローバーは、砂礫もろとも音もなく、真っ暗な崖下へと飲みこまれていた。
葡萄染克也は新人の胸ぐらをつかんだところで、このまま真朱孝太郎をぶん殴るか、踏みとどまるかを三秒間ほど悩んだ。
すべてが終わったあと――ギリギリの位置で墜落を免れた救助用ローバーを回収し、二人の要救助者を連れて降下艇一六号まで移動し、二人を乗せて再離陸し、月面都市のレヴァニアに到達して、二人をMDO(月面開発機構)の係官に引き渡してから、やっと新人の胸ぐらをつかんだのだ。
で、三秒考えたが――すでに事件から六時間はたっていて、ぶん殴る気力も怒りも残っていなかった。
「あの。あの……」
「俺がなぜ怒ってるか、答えてみろ」
「た、タバコが吸いたい……とか」
ぶん殴る気力が戻ってきた。だが保留だ。
「あ……すいません。その、自分の独断で該船のハッチを開けた……その件ですよね?」
「分かってるんじゃねえか」
あそこで警告もなくハッチを開けたこと自体は違法ではない(スレスレだが)。救助を待つときは、簡易宇宙服などを着用することは常識だ。なにかの事情で丸裸の時は、要救助者は真っ先にそれを伝えなければならない。
つまり真朱孝太郎の行為は大きくは間違っていない。
あのローバー――ラビット6型は見えない崖の際にいた。孝太郎はそれを『雪庇』と呼んだ。地球の雪山で見られる、尾根や山稜に大きく張り出した、庇のような積雪のことだ。葡萄染は雪国育ちではなかったが、それだけであのとき自分たちの置かれた状況を理解した。
月面で雪庇とは奇妙な話だが、ローバーなどの度重なる通行、採掘ロボットや隕石落下の振動などで、地下の空洞が拡大されて、思わぬ地形の変化が起きることはある。
こうした地形は『庇』と呼ばれている。
レゴリスは尖っているため『安息角』――崩れにくさの角度が大きい。そのため雪のような『庇』状の地形が形成されることもある。
あそこまで大きい庇は珍しいが、なにもないなだらかな丘陵に、ある日突然数十メートル級のクレバスが生まれた例はいくつもある。今回の事例もそうした一つだろう。
あのとき、真朱孝太郎がバッテリーの交換に左舷に向かい、異変に気づいた。庇状の地面の上に、ローバーが辛うじて乗っていると。
地面の細かな亀裂がいくつも走っているのを見て、ピンと来たらしい。
たったそれだけで、とにかく気づいた。
そしてああした挙に出たのだ。一瞬でも決断が遅れていれば、おそらく間に合わなかっただろう。
そこで葡萄染克也には、二点、疑問があった。
ひとつ。あのローバーが墜落寸前だと、なぜ自分は気づけなかった?
いや、それは仕方ない。自分のいた場所からは、亀裂は見えず、異常に気づくのは不可能だった。真朱だってバッテリー交換で左舷に行ったからこそ気づけたのだ。だが、本当にそうだろうか? 自分たちが巨大な『庇』の上にいるなどと、ベテランの自分でも確信は持てなかったのでは?
もうひとつ。あのローバーが危機にあると知った上で、自分にあんな真似ができただろうか? 警告の一つも発することなく、与圧ローバーのハッチを開けるなど。無理だ。警告はするだろうし、宇宙服の着用も念のために用心深く確認しただろう。そして――時間切れだ。あのとき、そんな悠長なことをしていたら、ローバーのクルーは二人とも助けられなかった。
結論。
真朱孝太郎の行動は、正しかった。
細かい問題点は山ほどあるが、決断して行動したことそのものは間違っていなかったのだ。
ド新人のこいつが。
真朱は何も言っていないが、克也は自分の矛盾や誤りを真っ正面から指摘されているような気分だった。
そこに副隊長の巨漢・常盤勇吾がやってきて言った。
「どうした、大将? お説教のひとつでもかましたところか?」
勇吾も事件の状況はすでに知っているが、のんきなものだ。それどころか、怒ろうにも怒れない克也の様子を見て楽しんでいるふしまである。
「はん。説教しようにも、多すぎてどこから始めたらいいか、わからねえよ」
「す、すみません……」
「はっは。真朱くん。うちの隊長は人を褒めることが苦手でね。それじゃこの先やっていけない、っていつも言ってるんだが」
「うるせえ」
克也はそっぽを向いて黙り込むことしかできなかった。
「さて。降下艇の給油ができたから、荷物を運び込んで戻るとしようか」
勇吾の言葉に、真朱孝太郎はきょとんとした。
「戻る? どこに?」
「もちろん。〈フィオルクヒルデ〉だ」
フィオルクヒルデ。最初に勇吾が待機していた月軌道ステーションだ。任務に戻る? 当直任務のことだろうか。だが、孝太郎は月に到着して間もないし、あれこれ手続きもまだだったはずだ。
「手続きなら済ましておいた。それに君はもう任務に就いている」
「え……そうなんですか?」
「遅くなったが、ゲッキューへようこそ。真朱孝太郎くん。三隊は君を歓迎するよ」
そう言って勇吾は手を差し出した。真朱孝太郎はおずおずとその手を握り返し、不器用に微笑んだ。
克也はその様子をただ眺めていたが、孝太郎が物欲しげな顔でこちらにも握手を求めているのに気づくと、うっとうしそうに右手を振ってみせた。
「勇吾は歓迎してるみたいだけどな。俺は納得してない。調子に乗るなよ」
「はい。調子に乗らないです」
「むっ……」
常盤がまた笑ったが、克也は苦々しげな顔をするだけだった。
「じゃあEVAスーツを着て降下艇に荷物を運びこめ。五分以内だ」
「はい」
駆けだしていく真朱の背中を眺めて、克也はぼやいた。
「いやな予感がする」
「はは。いつもは自信たっぷりの葡萄染隊長らしくもないな」
「その自信が、折られまくりなんだ。あの小僧には」
克也は憂鬱な声で言うと、歩き出した。
(ファント・ホッフの立ち往生したローバー・終)
第2話 レヴァニア市のミイラ男
ローバーの遭難事件から二日がすぎた。
真朱孝太郎はその二日間を、報告書や始末書の作成や、高度な検疫やあれやこれや――事件の後始末に費やしてすごした。
自分の荷を解くヒマさえなかったほどだ。
忙しかったのは隊長の葡萄染克也も同様だった様子で、顔を合わすたびに不機嫌さが増していっているようだった(だから、なるべく顔を合わせないようにしていた)。
その後、孝太郎たちは月軌道上のステーション〈フィオルクヒルデ〉を後にして(今度は民間のシャトルだった)、鴻救命の本部があるレヴァニア市に移動した。
レヴァニア市。
北半球最大の都市で、人口は一万人を超える。元はフンボルト海北西の渓谷を利用した小さな基地だったが、三〇年近くを経てこれまた増築に増築を重ね、直径三キロの都市にまで発展した。
孝太郎は事件の直後にこの街のドックを一時的に訪れていたが、すぐに月軌道のフィオルクヒルデに戻ってしまったので、気分的にははじめて訪れたようなものだった。
「おまえの着任手続きは済んでいる」
レヴァニアの港湾エリアを出ると、葡萄染は孝太郎に告げた。
「端末の登録とか住民票の届出とか、そういうのはよく知らん。適当にやっとけ」
「適当に……って。端末が未登録じゃ、何もできません。住民票はもちろん荷物も届いているのか……」
孝太郎の端末は一日前からほとんど使えなくなっていた。地球のプロバイダとの契約期限が終了したのに、月面での契約がまだだからだ。
「俺は知らん! あす八時前から当直だからな。解散!」
「あ……」
そう言うと葡萄染は女房役の副隊長・常盤勇吾とその場を去っていった。居住区とは反対側にある繁華街の区画に向かっていったので、これから飲みに行くらしい。
こうして真朱孝太郎は、正真正銘ただ一人になってしまった。
夜時間なので幹線通路はうす暗い。古びた看板が歯磨き粉の広告をたれ流している。幹線からいくつもの支線通路が伸びており、仕事帰りの人びとが行き交う。最初の一〇分は何もかも珍しかったので、あてもなくそこらをぶらついたりしていたが、すぐに帰る部屋さえないことを思い出した。
今いるのはレヴァニア市の港湾区とクイーンズ区の境目あたり。港湾労働者が多く住む一角だ。孝太郎の部屋もこの近所にあるらしい。『あるらしい』というのは、まだその部屋まで行ったことがないからだった。
「ええと……」
孝太郎は自分の部屋の住所を調べてみた。だが端末の通信機能がほとんど使えず、メモが読み込めない。視界のあちこちに『ネットワークに接続してください』の文字が表示されている。
まずはレヴァニア市の通信会社と契約しなければ。端末を操作して契約ページを表示させようとするが、それもだめだった。代わりにこんな表示が出た。
《新規ご契約のお客様へ/「わくわくプラン」、または「わくわくプランプラス」への新規契約は、最寄りの窓口にてお申し込みください。オンラインの契約は雇用保証法によって制限されており……》
以下、長々と注釈が続く。
まあとにかく、その「わくわくプラン」とやらはオンラインでは申し込めない、と。どこかの誰かさんの雇用を守るため、不便をお願いいたします、と。
そういうことらしい。
「で、窓口ってのは……」
幸い、比較的に近かった。窓口は歩いて三ブロック先だ。ただし、明日の一〇時まで閉まっているけど。
どうしよう。
自分の部屋さえわからない。というか、現在地もいまいちわからない。鴻救命の本部も見失ってしまった。
見知らぬ街で一人きり。ひどく心細い。
通行人もいるにはいるが、なんかガラの悪い人が多いし、っていうかなんで入れ墨してる人こんなに多いの? という感じで声をかけにくい。
ちなみにレヴァニア市は、そのほとんどが高さ二メートルの通路や部屋で構成されている。街というより非常に広くて複雑な基地というのが実状で、たまに小さな体育館くらいの広場が設けられている。孝太郎が今いるのもそうした広場のひとつだ。
広場は公園になっていて、人工の観葉植物が植えてある。ただ手入れはろくにされていないようで、落書きがしてあったりシールが貼り付けられていたり、酔っ払いのゲロがこびりついて乾燥していたり……という有様だった。
天井には窓があり夜空に星が瞬いていたが、もちろん作り物の映像だ。レヴァニア市はまだこれから何日間か昼が続くし、ここは月面から数十メートルの地下だし――そもそも真空の月では星は瞬かない。
広場にはまばらに人がいたが、前述した人相の男ばかりなので、道を聞くのもはばかられる。
いや、一人、そうでもなさそうな人物もいた。
東洋系で、歳のころは二十代。穏やかな顔つきだが、細い目がどことなく狐を連想させる。トレパンに無地のTシャツ、サンダルといった格好で、大きな洗濯カゴを抱えている。
その辺のコインランドリーを利用した帰りっぽい。その彼が、自販機の横で缶ジュースを片手にぼうっとしている(ちなみに月面はアルミ缶が主流で、ペットボトルはほとんど見ない)。
その生活感。近所のコンビニかドンキの駐車場にでもいそうな雰囲気で、ここが月面都市だということを忘れてしまいそうになる。話しかけるなら彼しかいないのではないか。いや、もう絶対そうだ、そうに違いない。
「あの……」
「?」
「よかったら端末の回線……使わせてもらえませんか? きょう引越してきたばかりで……あー、その、プロバイダと……契約が……」
その若者は最初、ほとんど微動だにしなかった。孝太郎は一瞬、彼が宣伝用のバーチャロイドか何かで、実在しないのではないかと思ってしまった。
「あの……?」
「…………」
「あ……の……」
「聞いてるよ。それで、プロバイダと契約が、どうしたの?」
「わ」
いきなり日本語で喋ったので、驚いて後じさりしてしまった。というか、日本人ぽい。
「あ……すみません。契約ができなくて。それで……端末を貸してもらうというか、テザリングさせてもらえないかな……と」
回線を貸してもらえれば、ちょっとの間でいいのだ。
「いきなり、赤の他人のキミに?」
「だめですか」
「だめですね」
「そうですか……。すみませんでした」
しょぼくれた孝太郎がその場を去ろうとすると、相手が呼び止めた。
「待ちなよ。赤の他人はいやだけど、知り合いくらいになら貸してもいい。ここは一つ、ゲームをしようじゃないか」
「ゲーム?」
「そうだな……なんでもいいから、食べ物を思い浮かべるんだ。で、それを当てるゲーム。交互にひとつずつ質問をしていくの」
「ははあ……」
「キミが勝ったら回線を貸してあげるよ。で、もし負けたら……そうだな、今夜はボクの言いなりになる、ってのはどうだい?」
「言いなり、ですか」
「うん。言いなり」
いきなり変な提案をされて、孝太郎は躊躇した。『今夜はボクの言いなり』って、やっぱり何かえろいことでも命じるつもりだろうか。でも回線は貸してほしいし……。
「わかりました。勝負しましょう」
「そうこなくちゃ」
若者は狐っぽい目をさらに細めて、くすくすと笑った。
「じゃあ食べ物決めて。ホントはメモとかに書いときたいけど、まぁ、キミは正直そうだからいいや」
「どうも」
実のところ孝太郎はつい一時間前にしょうゆアルガーメンを食べていたので、これといって食べたいものもなかった。でもまぁ、なんでもいいと言われたので、さっき食べたアルガーメンに決めた。
ちなみにアルガーメンというのは、藻で作られたラーメン(に似た何か)のことである。月面産の代表的な食料といったら、まずい藻類という時代があったのだ。昔は粗食の代名詞みたいにいわれていたが、最近ではなかなかおいしいものも出ている。
「決めました」
「よし。ボクも決めた。じゃあ質問しよう。キミの考えてる食べ物は、甘いかな?」
「あー、いえ。甘くはないです」
「ふむ。じゃあキミの番だ」
「えぇ、うーん。お、それは大きいですか小さいですか?」
「小さいかな。えー、ボクの番ね。その食べ物は細長い?」
いきなり核心に近づかれて、孝太郎は驚きが顔に出てしまった。
「あ……それは……その……」
「答えて。はやく、はやく」
「ほ、細長いです」
「ふふん。もうわかったかも。言っていい?」
まだ二問しか聞いていないのに! なんだろう、この自信は!?
「い……いいですけど、まちがってたら自分の勝ちになりますよね?」
「そうなるね、じゃあ言うよ、アルガーメン」
今度こそ孝太郎は全力で驚きの顔を浮かべた。
「……あ。当たり……です。でも、なぜ……どうして……」
「ないしょだよ、真朱孝太郎くん」
そう言って若者は笑った。自分の名前を知っている。端末で調べたのだろうが、さすがに赤の他人が個人情報を手に入れることはできないはずだ。
ということは、鴻救命の関係者か。
彼は笑いながら孝太郎の胸元に手を伸ばして、なにかをつまみあげた。それは半乾きになったアルガーメンのかけらだった。さっき食べた時にこぼれ落ちてくっついたのだろう。
「あ……!」
「本当にアルガーメンとはね。……ちなみにボクが考えてたのはチロルチョコ。いやー、面白かった!」
「うう……」
「インチキってほどではないし、ボクの勝ちってことでいいかい。それで……約束は覚えてるかな?」
一晩、相手の言いなりになるとかいう話だった。無念ではあるが約束は約束だ。
「は、はい。何なりと……お申しつけください」
と言いながら、さすがに孝太郎も覚悟した。
なにを命じるつもりだろうか。えろいことだったら困る。だが窃盗とか強盗とかの犯罪よりはマシか。だとしてどんなえろいことが考えられるだろう。アレとかコレとか、もしくはソレとか……。
「ついて来て」
若者は含みのある笑みを浮かべると歩き出した。背丈は孝太郎と同じくらいだろうか。いま気づいたが意外に筋肉が付いている。やはり間違いない、鴻救命の関係者だろう。
「あの、鴻救命の方ですか?」
「ああ。言ってなかったっけ。その通り。ゲッキュー三隊の群青薫です。キミの噂は聞いてるよ」
「え、同じ隊」
「うん。ホントならもっと前に顔合わせしてたんだろうけど、ボクはもう一人と研修でね。たまたま居合わせなかったんだ。いやあ、見たかったなあ。葡萄染隊長を出し抜いたんでしょ?」
「いや、出し抜いたなんて。夢中だっただけです。それに最後は葡萄染隊長に助けてもらいましたし……」
「それはそうさ。キミの月面初心者丸出しの歩き方を見れば分かるよ」
「えぇ?」
その若者――群青薫は、前を歩きながらちらりと孝太郎の身のこなしを見返した。バニー
・ボーイとは言い得て妙かもしれない。群青の地面を滑るような歩き方に比べて、孝太郎はまさしくウサギのようにピョンピョンと跳ねて、何度も天井に頭をぶつけそうになっている。まだ月に来て間もないので、六分の一Gに慣れていないのだ。
「こっちだよ」
群青はさっさと進んでいく。ここはもう居住区なので狭苦しかった。たまに出会う通行人とも、互いに譲り合わなければすれ違うことも難しい通路もある。
そして落書きの多いこと、多いこと。ぎりぎりでアートを名乗っても良さそうなグラフィティもあるが、ほとんどは憂さ晴らしの罵詈雑言ばかりだ。英語とスペイン語が多いので意味はわからない。いま端末が使えないのはむしろ幸運だった。
下の街区につづく階段を降りていく。一段一段がやたらと高く、急な階段だ。低重力だからこんな階段でも平気なのだろう。孝太郎は宇宙高専のころ、休日に出かけた名古屋城をなんとなく思い出した。
階段を離れ通路を進むと、比較的に綺麗な通路になってきた。二回ほど角を曲がったドアの前で、群青は立ち止まった。
「入って」
「え?」
「なんでも言う通りにするって言ったでしょ。さぁさぁ、早く早く」
電子錠を開けて、中の部屋に孝太郎を押し込む。『部屋』とはいっても、そこはわずか四畳ほどの広さしかない個室で、ベッドと机、あとはささやかな私物で一杯になるくらいの空間しかなかった。だが月で暮らす人間にとっては、これでも比較的まともな私室だといえるくらいだ。
センサが反応してデジタル窓――奥の壁一面を占めるパネルが点灯する。映った風景はどこかのこぎれいな湖畔だった。
「あの、この部屋は?」
群青はにやりと笑って孝太郎をベッドに押し倒した。軽く足払いをされ肩を押されただけなのに、孝太郎はまるで抵抗もできずにきれいに倒れた。
「うっ……」
勝負に負けた以上、言いなりになるのは仕方がない。えろいことはいやだけど、できるだけ、がんばります。
どうしたらいいのか分からないので、とりあえず両腕をクロスさせて仰向けの姿勢をとっていたら、群青が不思議そうにたずねた。
「なに? エジプトのミイラ?」
「いえ。なんとなく……ってミイラ?」
そんなふうに見えるだろうか、見えるかもしれない、どうなんだろう……などと姿勢をあれこれ試していると、群青はベッドから離れた。
「よし。そのまま、ここで寝てて」
「え。なんで……」
「そうだな、えー……一二時までそこを動かないこと。それだけでいいよ」
腕時計をちらりと見て言う。
「あの、よく分からないんですけど、ひょっとしてこの部屋、群青さんの部屋じゃないんですか?」
「うん。じゃあね」
ひらひらと手を振って、群青は部屋を出ていってしまった。扉が閉まりロックがかかったが、照明もデジタル窓も点灯したままだった。
「あの、ちょっと……?」
訳がわからない。改めて室内を見返してみると、ポスターが何枚か目に入った。陸上選手……これはマラソンだろうか? 名前は忘れたがニュースで見たことのある選手だった。その選手がホノルルだかどこだかを走っている姿。
それとビニール製のピンクのイルカが部屋の隅っこに立てかけてある。抱き枕かと思うくらいデカい。ただでさえ狭い部屋だというのに。
他には特に目につくものはない。群青薫とは出会って一〇分かそこらの間柄だったが、それでもここが彼の部屋でないことは容易に想像がついた。なんというのか……この部屋には色気がない。マラソン選手のポスター以外は、まるで飾り気がないのだ(ピンクのイルカだけは例外だったが)。むしろ実直な兵士か何かの部屋みたいだった。
「…………」
仕方がないので孝太郎は言われたままに、その見知らぬ部屋でじっとしていた。疲れていたが眠れそうになかった。実は地球から月まで、愛用の枕をトランクに入れっぱなしなので、ずっと熟睡できていない。枕が変わると眠れないタイプなのだ(しかも六分の一Gだし)。
一五分くらいたっただろうか。
なんの前触れもなくロックが解除されて、男が入ってきた。
歳のころは孝太郎と同じくらい。短髪、痩躯だが一目で筋肉質とわかる。印象的なのは目だ。大きく、ぎょろりとしている。
その彼が孝太郎を凝視して、大きな両目をぱちくりとさせた。
「あの……?」
孝太郎は声をかけたが、相手はひとこと、
「すみません、間違えました!」
と叫ぶと、部屋を出て扉をばたんと閉めてしまった。オートロックがガチャリとおりる。孝太郎は寝そべったまま、ぽかんとしてとりのこされた。
それから一分がたった。
もう一度、ロックが解除されて同じ若者が入ってくる。彼はふたたび孝太郎の姿を認めると、
「すみません、また間違えました!」
と叫び、ふたたびドアを閉めた。
それからさらに一分がたつ。
ドアの向こうに人の気配。困惑した息づかい。
ロックが解除され、今度はゆっくり戸が開き、同じ若者が顔をのぞかせた。孝太郎と部屋のポスター、その他の私物を慎重に見比べて、懐疑的な様子でこう言ってきた。
「お休みのところ、すみません。その、この部屋、たぶん、自分の部屋だと思うのですが……」
「そうなんですか?」
「ウッス。自分は刈安武といいます。で、そのポスターとか鞄とか、自分の持ち物と瓜二つで……つか、やっぱり自分の部屋っすよね? 絶対、間違いなく、オレの部屋だよね? オレの部屋だよな?」
部屋を見回し、ようやく確信が持てた様子でその若者――刈安武は言った。
「つか、なんできみ寝てるの。そしていつまで寝てるの、起きろよ!」
「すみません。ある人との約束で、ここで寝ていないといけなくて……」
横になったまま、孝太郎は応えた。
「いや、だからこの部屋、オレの部屋だっての!」
「それはたぶん本当なんでしょうけど、一二時までここを動かないよう言われたものでして……。いま何時ですか?」
「一〇時すぎだ」
「ええ。まだ二時間もあるよ。長いなぁ」
「居座る気満々かよ! だいたい誰なんだ、おまえは! なぜオレのベッドで寝ているんだ、しかもミイラみたいに腕をクロスさせて!」
「自分は真朱孝太郎といいます。あなたのベッドで寝ている理由は、よくわかりません。腕をクロスさせているのは、なんとなくです」
「なんとなく、だと!? おまえ、なんとなく腕をクロスさせるのか!」
「なんか、どこに腕置いたらいいかわからなくて……」
「そうか、でもそんなのどこだっていい。オレの部屋からさっさと出ていけ!」
刈安武は開けっぱなしのドアをばしばしと叩いて叫んだ。
「ですから、出ていきたいのは山々なんですが、ここに寝ているように言われてるんです」
「だれにだよ」
「群青薫さん、という人です」
すると刈安は天を仰いで嘆息した。
「ああ。またあの人か!」
「ご存知で?」
「職場の先輩だ! ちょっと待ってろ……」
刈安は天井を見つめ、端末でだれかに連絡をとり始めた。たぶん群青だろう。だがショートメールでは埒があかなかったらしく、通話に切り替えて相手に抗議した。
「群青さん! 何なんですか、この男は!? ええと……ま、ま」
「真朱孝太郎っす」
「そう! そのなんとかタロー! そいつがオレの部屋で寝てるんですよ! しかも変に腕をクロスさせて! 意味わかんないっすけど!」
相手の声は聞こえなかったが、たぶん笑っているのだろう。孝太郎に会話が聞こえていないのに気づいて、刈安が通話を共有に設定してくれた。孝太郎の端末の回線は相変わらず切れたままだが、刈安の通話には参加できるようになった。
『……クックッ。いやー、ごめん。ちょっと思いつきでイタズラしただけなんだ。その彼、うちの隊に入った新人くんだよ』
「え、こいつが?」
刈安は改めて孝太郎の顔をまじまじと、無遠慮に見つめた。ただでさえ大きな目が、間近でばちばちとまたたく。『ぱちぱち』ではなく『ばちばち』だ。
「ち、近い……」
「ふーん。葡萄染隊長も気づけなかった『庇』に気づいたって、本当なのか?」
「あ、はい。いちおう……」
「その時も腕をクロスさせてたのか?」
「いえ。つか何ですか、その質問」
『そういうわけで真朱くん。そこの刈安くんも同僚だから。仲良くしてあげてね』
群青が言った。
「は。あの。了解です。それで、自分はいつまでここで寝てれば……」
『ああ、もういいよ。ちなみにキミの部屋はそこの三室となりだから。刈安くんに開けてもらうといいよ』
そうだったのか。まあゲームに負けたのだから、これくらいの冗談は甘んじて受け入れなければならないだろう。
「群青さん、鍵を悪用するの、もうやめてくださいよ。こないだも帰ってきたら、デカいイルカさんが寝ててビビったのに」
ああ、あのピンクのイルカも群青の仕業なのか。
群青が刈安の部屋に入れたのは、アクセス権限を『同僚』に設定してあるからだ。事故や急病などに備えて、部屋の鍵を信頼できる人物に預けておくのは、宇宙生活者では常識に近い。本当の貴重品は別のロッカーに保管する。
『ああ、はいはい。あした早いんだから、じゃあ、お休み』
「群青さん!? ぐんじょ……あー、切れちまった。ったく」
刈安は孝太郎をぎょろりとにらんだ。
「……で、なんとかケンタロー。いつまで寝てるんだ。キーよこせ。おまえの部屋を開けてやるから」
「は。真朱孝太郎です。おねがいします」
ようやく孝太郎はむくりと起きあがった。低重力のことを忘れていたので、天井にぶつかって落っこちて、テーブルの小物類をめちゃくちゃに散らかしてしまった。