草原の輝き
彼はぼくに『永遠』を教えてくれた人だ。
あの頃、ぼくはこう思っていた。すべては移ろい、変化し、やがては消えてしまう。
確かに手にしていたものさえ、こぼれ落ち、消え去ってしまう。年をとるたびに失うものばかりが多くなるのだ、と。
まだ、たった十三年しか生きていないのに。
「きみは……ワーズワスの詩を読んだことがあるかい?」
やわらかく、でもどこか凛とした声音で彼はぼくに尋ねた。
ぼくは知らないとも知っているとも答えず、唇をきゅっと結んだ。
彼は、麦の穂のような髪を風に揺らし、歌うように言った。
「草原が輝いていたあの頃を、花が咲き誇っていたあの頃を、取り戻せはしない。だとしても、嘆くことはない。その奥に秘められた強さを見出そう」
その詩が表すことよりも、その詩を口にした彼のネモフィラのような青い瞳が、ぼくの心に深く沈んで広がっていった。
後に、それが、日本では『草原の輝き』と題された詩だと知った。
一枚の絵を前に、ぼくは彼と同じような口調でその詩を口にする。
すると、よみがえる、鮮やかに。
彼と過ごした二度と還らぬ青々しい一年が。
1
自分が小憎らしく生意気で、かつ陰気なひねくれものであるという自覚が、多生にはちゃんとあった。
髪はさらさらの直毛で、どうカットしてもらっても、まさかり担いだ金太郎。けれども性格は、髪の毛のようにまっすぐではない。
誰もがこんな自分を持て余す。隣に座っている母親も、助手席に座っている新しい父親も、自分でさえも。
わかっているのに、何もかもが気に食わない。車窓から見える薄曇りの空のように心は晴れない。
今乗っている車でさえ、多生は嫌だった。威厳たっぷりな顔つきの大きな車体。イギリス王室の公用車として、王族が式典や会議に出席する際にも使用されているという高級車。たしかに乗り心地は抜群だけど、この車に乗れるほど、自分には品も格もない。
本当ならひとりで、電車で来たかった。高速列車に乗ればロンドンから約2時間。けれど、駅からまたバスに乗らなければならないから車で送っていくと、母親が頑強に主張したのだ。
その母親は4時間近く車に揺られたせいか隣で眠っている、気持ちよさそうに。
この人はどこでも自分の居場所にしてしまうんだ、と多生は思った。多生がどこにいても場違いだという感覚を抱いているのに反して。
車が進む道はどこまでも拓けていて、両側には田園や小さな森が続いていた。夏の終わりの濃い緑が流れていく。
むすっと押し黙り、外を見ている多生を、新しい父親はちらと振り返った。
多生は彼を、心の中でシープと呼んでいた。明るいブラウンの髪と瞳。すらりと背が高く骨ばってはいるが、よく似ているのだ、シェットランド・シープドッグに。
「左手、5、6マイル先くらいが街の中心部だよ。周囲は12世紀から14世紀にかけて築かれた城壁に取り囲まれているんだ。この街の歴史は……」
「街となったのは紀元71年頃。ローマから遠征してきた軍団が、ここに要塞を造ったから。その後、9世紀にはヴァイキングに支配され、11世紀半ば過ぎまではノルウェーの支配下にあったんですよね」
多生が抑揚のない調子で淡々と言うと、新しい父親は素直な牧羊犬みたいな顔に戸惑ったような表情を浮かべたが、すぐに頬をゆるめた。
「すごいな。よく勉強しているね、タオ」
皮肉ではなく心底、誇らしそうに新しい父親は言う。
当然、勉強した。彼もまた出身だというパブリックスクール、ウィンロウ校への入学を果たすために。
パブリックスクールは、イギリス国内にある2000を超える学校のうちの二十数校だけを指す。いずれも全寮制で13才から18才、5学年の生徒が在校している。学問だけでなく、スポーツ、上流社会のマナーと人格教育にも力を注いでおり、充実した教育を受けることができるが、入学基準は厳しい。当然、学費も高い。
イギリス国内のみならず、欧州でも人気の家具ブランドの跡継ぎであった新しい父親――イーサン・コンスタブルには、相応の財力があるらしい。コンスタブル家は庶民院議員であった祖先がバロネット(準男爵)の称号を授けられており、それなりのステータスも持ち合わせてもいるようだ。
インテリアデザイナーをしている多生の母親――沙理は、東京で行われた家具の見本市で、イーサンと知り合った。イギリスに留学していた経験もある沙理は、妻と永遠に別れたばかりの6つ年下の男とたちまち心を通じ合わせたのだ。
4年前、母親の再婚でイギリスへとやって来た多生には、幼少期から英語を習わされていたとはいえ言葉の壁もあり、試験勉強は本当に大変だった。それでも黙々と励んだのは、母親が、再婚した夫の出身校にぜひ、と望んだからではない。いたくなかったのだ。実の母親と新しい父親と、母親を亡くしたばかりの新しい3才年下の義弟がいる家に。
そこは多生が望んだ家ではなかった。母親と新しい父親と弟、3人の居場所だった。ライトゴールドの巻き毛をもつ弟――アーロは、仕事の関係で住宅模型を作るのが得意な沙理に、好きな車や電車を作ってもらい、すぐになついた。小さな頃は多生もそれがうれしかったのを覚えている。料理といえばカレーくらいしかできない沙理だったが、作ってくれる玩具は機能的かつ繊細にできていて、しかも世界で多生だけしか持っていない。すごく自慢だった。けれど、沙理がアーロのはしゃぐ顔を見て喜んでいる様子を、そんな新しい母子を目を細め見守るイーサンを見るにつけ、多生だけが暖炉が燃える暖かな室内を寒い戸外から眺めているような気分になった。
――ぼくはこの家にまぎれこんだストレイ・シープ(迷える羊)だ。
牧羊犬に似た新しい父親は、多生を新しく築いた小さな群れになじませようと心を砕いたが、そうすればするほど多生は心を固く閉ざしていった。
ウィンロウ校は全寮制の男子校である。入学すれば、家を出ることができる。多生は絶対に合格しようと心を決めた。
多生はプレップスクール(私立小学校)に通い、11才で一次試験にあたるプレテストを受けた。合格した者だけが、二次試験を受験することができる。学力テストだけでなく、45分にわたる面接と口頭試問も行われる。「タイムマシンに乗れたとしたらどうするか」「人間の鼻の穴は2つなのに、なぜ、口は1つなのでしょう」「あなたはリンゴをどう説明しますか」という問いを投げかけられることもあるという。正解を求めるのではなく、自分の考えを伝える力、課題へのアプローチ、創造力や好奇心をはかるためらしい。
学力以外の能力も重要視される。スポーツにも芸術分野にも秀でたものがなかった多生は考えた末、日本から取り寄せた本で折り紙を学んだ。まだ細く小さな指先から作り出されるカーネーションやチューリップやクローバーは、いたく面接官たちを感心させたらしい。
去年の秋、二次試験に合格し、この春、宿泊型の適性テストを受け、多生はようやく入学を果たすことができたのだ。
目標を達成したのに、多生の心は弾まなかった。
入学する学校もまた望んだ場所ではない。逃れるための居場所だったから。
川沿いの道を走り、橋を渡ると、赤茶けた大きな門が見えてきた。門の中央には獅子と白薔薇があしらわれた学校章が据え付けられている。
新しい父親――イーサンは門の手前にある守衛舎で、多生の入学証を提示した。
門と同じように年月と陽にさらされたような守衛は、他の新入生にそうしたように、後部座席に座っている多生に歓迎の意を表する。多生は黙ったまま、少しだけ頭を下げた。
門を抜けても道路は続き、その先に校舎が見えてきた。中央に時計台があり、両側の教室棟がその裏にある校庭を包み込むように建っている。奥には大聖堂、右手には礼拝堂や図書館、演奏会や表彰式が行われるホール。他にはラグビー場やフットボール、クリケットができる運動場。屋内スポーツや水泳ができる体育館、さらに音楽堂、研究室、購買部、病院までもがあり、さながら小さな村のようだ。
ボーディングハウス――ハウスと呼ばれる学生寮はたしか左奥だったはずだ。寮は十棟あり、それぞれ鳥の名前がつけられている。オウル、ラーク、スパロウ、スワン、ウッドペッカー、キングフィッシャー、ナイトホーク、ファルコン、ストーク、ピーコック。多生が入る予定なのはキングフィッシャー寮だった。
「わざわざ送ってきていただいてありがとうございました」
寮棟の前に車が着くと、多生はあくまで礼儀正しくイーサンに言い、車を降りた。トランクを開け、スーツケースを取り出す。
何かはなむけの言葉を贈ろうとしたのか、「えーあー」と不明瞭な言葉を発するイーサンを振り返りもせず、多生は歩き出した。
まだ寝ていたはずの沙理が車の中から飛び出してきて多生の前に回り込み、切れ長の黒い瞳を多生にまっすぐ向けた。
「がんばってね。体には気をつけて。できれば毎日連絡ちょうだいね」
沙理は口早に言い、多生を抱きしめた。長い髪が多生の頬にかかる。形の良いアゴが目の前にあった。多生はまだ母親の身長を追い越せてもおらず、追いつきさえもしていない。
この学校に入ることを望んだのはあなたなのに、今になってそんな悲しげな顔をするのはなぜなんだ。多生は怒りにも似た感情を抱いた。後ずさりして白く細い腕を逃れ、多生は答えた。
「がんばるし、体にも気をつける。そうしたら、必然的に毎日連絡するヒマはないから」
多生の言葉を聞いた沙理の反応は見なかった。背を向け歩き出す。かすかに彼女が好きだというホワイトローズの――カーネーション、アイリス、ジャスミン、ヴァイオレットという白い花の香りを混ぜた香水の匂いが多生の鼻先にまだ漂っている。
寂しくないと、生まれた時から続いていたあなたとの暮らしを手放したことなど何とも思っていないのだと示すために、多生はアゴを上げ、胸を張った。少しだけ視線が上がり、見える景色が変わった。
ボーディングハウスの管理室は、一番古いというラーク寮の1階にある。ウィンロウスクールが創立されたのは16世紀後半だから、その頃からあった建物だ。日本でいうと室町時代にはもう存在していたことになる。
多生がイギリスに来て一番に感じたのが、歴史の連なりだった。この国のすべてに過去の時間が深く刻まれている。ここで生まれた者は、意識せずとも、史実と伝統と文化を浴びるように育つ。異国から来て、後天的にそれらを獲得していくしかない多生は、新しい家庭にいるのと同じような疎外感を何につけ覚えてしまう。
入寮手続きをしてくれる初老の事務員は、多生が名乗ると背中を丸めながらも、軽やかにパソコンのキーボードを叩いた。こうしたところはちゃんと時代に合わせているらしい。
「タオ・コンスタブル。ようこそ、ウィンロウへ。えーと、きみのハウスはキングフィッシャーだな」
キングフィッシャー。カワセミ。鮮やかな翡翠色の体と長いくちばしを持つ水辺の鳥。腹はオレンジ色でスズメより少し大きい。多生は一度、見たことがあった。
「ツィーッ」という高く鋭い声を聞いて湖を見ると、まっすぐに飛ぶこの鳥がいた。それがカワセミだということを教えてくれたのは、実の父親だった。
父親はスマートフォンで検索して、多生に画像を見せてくれた。
「ほら、きれいだろ」
「うん、きれい!」
「飛ぶ宝石ともいわれてるんだよ」
二人で眺めた美しい鳥。あれはいつだったか。でも、そのひと時はもうどこにも存在しない。
多生の失われた時間を知る由もない事務員は、にこやかに手続きを進めていく。
「はい、これがロッカーのキー。届いたきみの荷物は中に入れてあるよ。注文済みの制服もね。ブレザー、ベスト、トラウザー、タイ、セーター、オーバーコート。シャツとソックスは用意してきたね? まだなら購買部で買えるからね。スクールハットは明日、渡されるはずだ」
ウィンロウの生徒は小麦色のストローハットを着用する。入学式は行われないが新入生は上級生にハットをかぶせてもらうというセレモニーがあるらしい。
「ハウスの場所はわかるかな。1年生の部屋は2階だ。きみは204、一番奥の部屋だよ。同室の子たちは、きみ以外みんな手続きをすませている。それじゃあ、よき学校生活を」
丸い柄のついた古びた鍵を手に、多生はラーク寮を出て、渡された地図を片手に左右を見た。
あたりに不規則に十棟のハウスが散らばっている。一棟に60名、計600名、バチカン市国の人口と同じくらいの生徒がここで寝起きを共にする。
キングフィッシャー寮は一番奥にあった。住まう者たちが卒業していっても自分だけはここにいるぞ、という強い意志のようなものを感じさせるレンガ造りの建物。重い扉を開けると、古いがよく磨きこまれた廊下が見えた。
人のいる気配がしないが、どこからかかすかにピアノの音色が聞こえてきた。たしか、アイルランドの作曲家でピアニストでもある、ジョン・フィールドの『夜想曲1番』。夜想曲――ノクターンという名称を創り出した音楽家で、ショパンにも影響を与えている。
多生はこの作曲家を知っていた。芸術全般にわたる知識と理解、それもこの学校に入るために必要だと思ったからだ。教養もまたパブリックスクールの生徒に求められるもののひとつだった。
音をたてないよう多生は歩を進めた。木彫りの装飾が施された中央の階段をゆっくりと上りきり、2階の一番奥の部屋にたどり着いた。
ノックをするべきかどうか迷った末、多生は控えめにドアを叩いた。が、何の反応もない。事務員はもうみんな入寮手続きをすませたと言っていたが、誰もいないのだろうか。もう一度、軽くノックしてから、多生はそっとドアを開けた。
手前に細いロッカー、両側に3台ずつベッドとライティングデスクが並んでいる。一番手前のデスクに向かっていたジンジャーヘアの生徒が多生を見た。室内にいるのは彼だけだ。なんと挨拶すればいいのかわからず、多生は立ち尽くした。
ジンジャーヘアがふふんと口を吊り上げる。
「きみ、納屋で生まれたの?」
質問の意味を捉えかね、さらに固まった多生の背後を、ジンジャーヘアは指し示した。反射的にノブに手をかけようとして、多生は動きを止めた。先ほどの問いがドアを閉めないやつに対するこの国特有のあてこすりであることに、多生はようやく気付いた。
多生はゆっくりと振り向き、意地の悪そうな笑みを浮かべている相手に無表情で言った。
「なぜかこのオスカー・ワイルドの言葉を思い出したよ」
今度は相手がキョトンとしている。
「皮肉屋とは、あらゆるものの値段を知っているが、何の値打ちも知らない人間のことである」
ジンジャーヘアは目を吊り上げたが、ここで怒ってはならないという理性が働いたのか、必死に感情を押し殺している。
「なるほど、覚えておくよ。きみが言葉の刃を振りかざす人間だということをね」
どっちが先に振りかざしたのかお忘れですか……という追撃は、多生にも理性が働き飲み込んだ。
ジンジャーヘアがデスクに向き直ったので、多生は突っ立ったままになった。
その時、背後からまだ声変わりのしていないか細い声がした。
「……えっと、きみ……タオ・コンスタブル?」
声を発したらしい多生より少し背の低い少年と、長身の少年がくっつくように立っていた。
「そうだけど?」
ぶっきらぼうに答えると、背の低い少年は怯えたようにまばたきをした。柔らかくカールしたブロンドの髪、小さな顔、白い肌。ここで会ったのでなければ、女の子だと勘違いしただろう。
「あ、ぼく、あの、同じ部屋の、フィン。フィン・ウェブスター」
長身の方はボサボサのダークブラウンの髪に手をやり、同じ色の瞳で多生を見つめている。思慮深そうな眼差し、すっとした鼻梁とシャープなアゴ。彫像のように凛とした佇まいをしている。
「彼はコナー。コナー・ポーター」
コナーは紹介されると、すっと右手を差し出した。握手をするのかと思いきや、コナーの右手にはイギリスの老舗菓子メーカー・シンプキンのキャンディ缶がのせられていた。優雅な動作でコナーは蓋を開け、多生にひとつ取るよう促す。
「シンプキンの創業者、アルバート・レスリー・シンプキンは、天然の素材を使って品質の高いキャンディを作ることを目指した。銅鍋でじっくりと煮て作られ、風味はまろやかでやさしい。しかも、ベタベタしない」
いきなり商品の説明をされ、多生は戸惑った。もしかすると、その『シンプキン』というメーカーの御曹司なのだろうか。
フィンが笑いを噛み殺しながら、そして自分が先にキャンディを一つつまみながら補足した。
「あのね、コナーはすごくお菓子が好きなんだって。それに詳しいの。ロッカーにある荷物も、本や服より甘いものが多いんだ」
どうやら自社製品の宣伝ではないらしい。
「ありがとう。せっかくだけれど……」
多生が断ろうとするとコナーは少し目を伏せ、哀しげな顔になった。仕方なく、粉を吹いたような赤いキャンディを一粒手にして、口に放り込む。甘酸っぱいストロベリーとクリーミーなミルクが混ざった、絶妙な甘さだ。
「……おいしい」
多生が感想を述べると、コナーはうれしそうに目を細めた。この笑顔を見るためなら、何粒でも食べる女の子がたくさんいそうだ。
デスクでパソコンを見ていたジンジャーヘアが立ち上がり、3人の間を抜けて部屋を出て行った。きっちりドアを閉めた彼を見ていた多生に、フィンが言った。
「彼の事、知らない? イーライ・シェイファーっていうんだけど」
多生が首を横に振ると、コナーがポケットからスマートフォンを取り出した。ハウス内では使用していいことになっている。画面には一昨年、ヒットした映画の画像があった。少年たちが不可思議な事件の謎を解くというロンドンの郊外を舞台にしたファンタジーとミステリーをミックスしたような内容だったが、多生は観てはいなかった。
「彼も出てたんだよ」
「……あいつ、俳優なの?」
「うん、お父さんもお母さんも有名な俳優だよ」
ウィンロウには有名人の子弟も多く通っている。本人自身がすでに才能を発揮していて、スポーツの代表選手、何かしらの全英チャンピオン、中にはすでに起業している生徒もいる。授業のない日にはドライバーが学校まで迎えに来て会議に出席するということもあるらしい。
「ちなみにね、イーライは何かと主人公をジャマする同級生役」
フィンが笑いを噛み殺しているところを見ると、あの居丈高な態度は多生だけに対するものではないらしい。
「あ、ごめん。荷物をしまわなくちゃね。タオのロッカーは左手の右端だよ。それから……ベッドの位置は左手の窓際。もしそれで不都合があるなら言って。ぼくはその隣だから、交替するよ」
「……いいよ、それで」
親切に申し出てくれたフィンに対して、多生は素っ気ない返事をしてしまう。フィンは一瞬、身を硬くしたがおだやかに続けた。
「夕食は19時からだよ。そのときに同室の、あとの二人に紹介するね」
一週間前からすでに入寮が始まっているので、ほかの生徒たちはすでに自己紹介し合い、顔見知りになっているのだろう。多生はぎりぎりにやって来たことを、少し悔いた。ここでも、もはや疎外感を感じていた。
ロッカーの中には事務員が言った通り、制服が一通り入っていた。タイは学年によって色が異なる。1年生は若草色だった。この寮のカラーである翡翠色の長傘も一本あった。広げてみるとキングフィッシャーを模したらしいマークがついている。そういえばもらったロッカーのキーにも同じ模様があった。
文具や本はデスクに、普段着はベッドの下の引き出しにしまうと、多生は体をマットレスの上に投げ出した。今日からここで眠るのだ。他人と同じ部屋で。
妙に落ち着かない気持ちになって体を起こすと、多生は窓際に移動した。ギシギシと音を立てる木枠窓を開けると、外には広い空き地が見えた。ボウボウと雑草が生えている。父に言わせれば、雑草なんてないというのだろうけれど。心慰められる風景ではない。荒れた土地はむしろ心をささくれさせる。何かではない乾いたような更地がまるで自分自身のように思えて、多生は開いた窓をすぐに閉めた。
夕食まではまだ時間がある。バスルームや洗面所の位置を確かめ、コモンルームや食堂を覗いてみようかとも考えたが、億劫でやめた。
日本から持ってきた植物図鑑を多生は開いた。5才のころに買ってもらったもので、背表紙は破れ、表紙は変色している。これだけはどうしても捨てられなかった。父は多生を捨てたというのに。なのにどうして思い出してしまうんだろう、もう取り戻せない日々の事を。
――「ほら、きれいだろ」
――「うん、きれい!」
かつては多生も言葉を刃のように使うことなく、素直に気持ちを口にできたのだ。
多生は図鑑を閉じ、ライティングデスクの棚に戻した。
同室の二人を見ると、フィンはタブレットで何かを読んでいて、コナーはスマートフォンでゲームをやっているらしかった。古いハウスはこんな現代的な生徒たちを見たら、嘆くだろうか。
多生は白いシャツにネイビーブルーのジャケットとトラウザーに着替え、1年生用の若草色のタイを結び、19時少し前にフィンとコナーと食堂のある1階へ下りた。連れだっていくのは気まずかったが、すでに数日はハウスで過ごしているであろう新入生たちの中でまごつくのはもっと嫌だった。
廊下を歩いていると、またピアノの音が聞こえてきた。日本でもよく知られている『グリーンスリーヴスによる幻想曲』。ロンドン王立音楽大学で学び、伝統的なイギリス民謡や教会音楽の収集に力を尽くしたレイフ・ヴォーン・ウィリアムズの代表曲だ。否応なしに郷愁をそそられるこの曲に、多生はしばし耳を傾けた。
「もう。まだ、弾いてる」
音が漏れ出しているコモンルームのドアを、フィンは躊躇せずに開けた。室内にはソファやカフェテーブルが並んでいる。テレビやティーセットも置かれていて、生徒たちが談笑したりくつろいだりできるようになっている。
アップライトピアノの前には、制服のシャツの袖をまくり大きく胸をはだけた、少し浅黒い肌の野性的な少年が、その印象とは真逆の旋律を柔らかい腕の動きで鍵盤を叩いていた。
「ジュード、夕食の時間だよ」
少年は手を止め、「おお」と返事をしてから、鍵盤を布で拭き、立ち上がるやいなやフィンの肩に手を回した。
「迎えに来てくれたのか、ハーミア」
「やめてよっ。今度そう呼んだら、口きかないからねっ」
フィンは遠慮なくジュードと呼んだ少年の腕をつねった。
「いてて。かつては恋人同士だったのにつれないな」
「それは役柄の上ででしょっ。誤解されるような言い方はやめてっ」
フィンは白い頬を染めて抗議する。怪訝な顔をして見ていた多生に、フィンは恥ずかしそうに説明した。
「ジュードは幼なじみなんだ。プレップが一緒で……。その頃、『夏の夜の夢』を上演したことがあって……」
ハーミアはシェイクスピア作の、その喜劇の登場人物だ。恋人がいるのに、親に結婚相手を決められた娘。とすると、その恋人役だったのがジュードということか。そして、フィンは娘役……。
ジュードは多生がそばにいるのに気づいて、誰だというように眉根を寄せた。
「タオだよ」
フィンが紹介すると、ジュードは「おお」と破顔して、手を差し出した。キャンディ缶は持っていないから握手を求められているのだろう。
「ジュード・チェンバレン。よろしく、タオ」
多生が一応、儀礼的に握手をすると、ジュードは気さくに尋ねてくる。
「タオはどこから来た? アジアからの入学生か?」
「……ロンドン郊外から」
「なーんだ、じゃあ、イギリス人なのか」
この国に来てから繰り返し聞かされた感想だった。多生の髪も目も肌の色も、明らかにアジア系のそれだ。だから何度もなぜ自分が今、ここにいるのかを説明しなければならない。異人として扱われることもまた、多生が疎外感を感じている一因でもあった。面倒なので、多生は軽く頷くだけにした。
「ぼくのことも紹介してよ、フィン」
奥のソファにいたらしい少年が多生を見ている。真ん中から分けたブロンドの髪、ローズピンクの唇、柔らかそうな頬の線。すべてを許してくれそうな優しい笑みを浮かべ、首を少し傾げた姿はエレガントだ。
フィンがにっこりとする。
「オリーもいたの」
「うん、ジュードのピアノを聞いていたんだ」
「聞いてねーだろ。ずっと寝てただろ」
からかうようにジュードが言った。
「だって、ずっと弾いてるから」
「ケンブル社のピアノを弾くのは、初めてだったからさ。今はもう国内では生産されてないし。バイエルンの持続可能森林にあるスプルース材が、響板にも鍵盤にも用いられてるって聞いて、興味を持ってたんだ」
「豊かでまろやかな音色だったね」
「寝てたくせに」
彼は、髪の色によく似あった琥珀色の目を細め、多生の方へやって来た。
「初めまして、タオ。ぼくはオリー・アルメイダ」
ソファから立ち上がり、オリーは多生の手をそっと握った。長い指、なめらかでしっとりとした手。育ちの良さがわかるような。
「よかった。これで204号室の住人が全員、入寮したわけだね。あれ、イーライは?」
フィンとコナーがチラッと顔を見合わせた。
「先に行ってるよね。彼はいつも時間厳守だし」
「おー、おれたちも行こうぜ。腹減った~」
ジュードがまたフィンの肩に腕を回し、コモンルームを出て行った。
1階にある食堂にはおそろしく長い机が二卓並んでいた。食事はバイキング形式でメニューが入口の横に貼りだしてある。今日はパンプキンスープ、チキンハーブソテー、ナスとチーズの重ね焼き、スチームベジタブル、パスタとそれにかけるソースが三種類。デザートのキャロットケーキもある。明日からは授業なので、サマーホリデーを終えた上級生たちも全員戻って来ているのだろう。次々とハウス生が入ってきて、列に並び、皿に好きなものを載せていく。
「コナー、デザートがメインみたいになってるよ」
フィンがコナーのトレイを見て、呆れた。一番大きな皿にどんとキャロットケーキが載っている。甘党なのは本当らしい。彼や、自分の母親のようにマイペースでいられたら、どんなに気が楽だろうと多生は思う。
多生たちは後ろの席にかたまって腰を下ろしたが、イーライは2年生であろう緑色のタイの少年の隣に座っていた。同級生よりも上級生とつるむほうが何かと得と判断しているのだろう。2年生の生徒たちに向けたかすかに媚びた目が、多生をイラつかせる。
皆が席に着いたところで、一番前に座っていたくるくる巻き毛の生徒が祈りの言葉を捧げ始めた。黒いタイを締めているから、最上級生のはずだ。
「父よ、あなたのいつくしみに感謝してこの食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、わたしたちの心と体を支える糧としてください。わたしたちの主、イエス・キリストによって。アーメン」
後を追ってアーメンと詠唱するやいなや、育ち盛りの十代の男子がいっせいに食事を始めた。その猛烈な食欲を見ていると、逆に食べたいという欲望が失せてくる。しかし、取り分けたものを残すわけにはいかない。多生はちびちびと蒸した野菜を口に運びながら、生徒たちを見た。自分のようなアジア系の学生はほかにはいない。
――結局、逃げてきた場所でもストレイ・シープなんだ。
高い天井に響くにぎやかなしゃべり声が、多生には遠いものに聞こえた。
「キングフィッシャー寮にようこそ! おれはヒューゴ・マッキンリー、5年生だ。この寮のヘッド・オブ・ハウスを務めている。みんな、姿勢を楽にして。堅苦しいのはおれも苦手だからな」
それは彼の格好を見ればわかった。いつの間に着替えたのか、胸元に「Go To Hell! 」と書かれたロック調のTシャツを着ている。1時間ほど前は祈りの言葉を捧げていたのに。ハウス内での服装は自由、ということになっているが、彼以外の生徒は制服のままだった。
夕食後、新入生12名はジュードがピアノを弾いていたコモンルームに集められ、寮の説明を受けた。ヒューゴのほかに2年生が4人いる。
「この2年生たちは、シェパーズと呼ばれる新入生の指導役だ。これから二週間、きみたちの面倒を見る。わからないこと困ったことがあれば、彼らに言うといい」
なるほど、シェパーズ。羊飼い。小学校を卒業したばかりのガキどもを群れからはみ出さないようにするわけだ。迷いこんだ多生も。
「知っているかな? 寮の名前になっているキングフィッシャーの羽の色は、色素によるものじゃない。シャボン玉が様々な色に見えるのと同じように、羽毛の構造によって光の加減で青く見えるんだ。新入生諸君も、このウィンロウで自分なりの色で輝いてほしい! ちなみに、この寮のスローガンは《キラキラ羽ばたけ心輝け、キングフィッシャー!》だ!」
ヒューゴが右腕を上げたせいで、『地獄に行け』の文字が小躍りしているように見える。このノリは厳しい、と多生は固まった。が、ほかの生徒も一様に、困ったような顔をしていた。
「おや、もう始まっていたか。遅れて申し訳ない」
丸い体躯の、頭頂部が薄くなった教師が入ってきた。
ヒューゴが皆に紹介する。
「バクストン先生。我らがハウスマスターだ」
この教師は、寮の監督官を務めているらしい。
「ようこそ新入生諸君! わたしからはひとことだけ。キラキラ羽ばたけ心輝け、キングフィッシャー!」
バクストン先生の頬も頭頂部も、なるほどツヤツヤ輝いている。
ほかのハウスもこんなテンションなのだろうか。それでなくても疲れているのに、疲労が増すような言葉に、多生は肩を落とした。それに、まだ初日なのに、一体、何人の人間の名を覚えなければならないのだろう。
イーライだけはちゃんとノートを用意してメモしている。何を書いているのだろうと多生が覗きこむと、体で隠したのがやっぱりイラつく。
もう、いい。どうせ誰とも関わる気はない。家族とさえ打ち解けられない自分が異人たちと心を通わせられるわけがない。これからも黙々と勉強して、やるべき事はこなし、自立できる年齢まで孤独に耐える。ただ、ひたすらに。多生はそう心に決めた。
部屋に戻ると、ダムが決壊したかのごとく、眠気が多生を襲った。
プルシアンブルーのリボンが風になびいている。真新しいハットをかぶった新入生の群れが教室棟へと向かっていく。
つい先ほど、全校生徒を収容できるすり鉢状の大ホールで、ハットの授与式が行われたばかりだった。
パイプオルガンが演奏される中、壇上に並んだヘッド・オブ・ハウスたちの前に、同じ寮の新入生が進み出てハットをかぶせてもらった。軽く膝を折り、頭上に帽子を戴く。それだけのシンプルなセレモニー。リボンの中央にはハウスのシンボルマークがついていた。
その後はチューターと呼ばれる担当教師との顔合わせが行われた。チューターは担任というより、家庭教師的な役割で、授業をきちんと理解できているか、苦手な科目をどう克服するか、ということなどを指導してくれる。
多生のチューター、ジェイコブ・ケラーは目元の涼やかな四十代の教師で、ウィンロウの卒業生とのことだった。彼から時間割を渡され、授業のガイダンスを受けた。朝の8時半から夜の9時半まで、ぎっしりと予定が詰まっている。
一日は礼拝かチュータータイムから始まり、授業が七限目まである。それが終わったあともクラブ活動などのアクティヴィティーに参加しなければならず、夕食後にも自習時間が設けられている。月曜から金曜まで同じスケジュールで、土曜も午前中は授業、午後はスポーツや様々なイベントを行う時間になっていた。
科目は、英語に加え、フランス語、スぺイン語といった語学。数学、生物、化学、地理、歴史、美術、音楽というおそらく日本と同じような授業に加え、演劇や神学というのもあった。時代に合わせ、テクノロジーやデザイン系の科目もある。
とにかく勉強と時間に追われそうだということは、多生にもわかった。
――それでいい。余計な事を考えなくていいから。
「大変だとは思うが、『未来とは今』だ。きみたちのこれからのために努力をしてほしい」
アメリカの文化人類学者、マーガレット・ミードの言葉を引用して、ケラー先生は顔合わせを終えた。
最初のうちは、ハウスでとる三度の食事も、教室を移動するときも、同室のフィンやオリーが多生に声をかけてくれていた。だが、行動は共にするけれど、会話には参加しない多生に遠慮したのか二人とも何にも誘わなくなってしまった。
決められたタイムスケジュールの間を、多生はひとりで過ごし、その時間を持て余したときは図書館に行って本を読むか、礼拝室へ行き祈る格好をして目を閉じていた。
日曜日、生徒たちが連れだって街へ出かけて行っても、多生は広い校内を歩き回り、木々や植物を見ていた。
一番、印象的に植えられているのは、イギリス自生の木でこの国の象徴にもなっているオークだった。オークは家具や建築の大切な材料であり、たくましさと長寿を象徴している。17世紀の清教徒革命のころ、戦いに敗れた当時の皇太子が、この木に身を隠して追っ手をやり過ごしたという逸話があり、その木にはロイヤル・オークという名がつけられたという。
裏手にある小高い丘を登ると、学校の脇を流れる川のそばには銀色の幹をもつ背の高いブナの列が見えた。季節が進むに連れ、濃い銅葉色になっていくだろう。
それらの木の名前を教えてくれたのは、やはり実の父親だった。
――「高いね」
――「多生の何倍もな」
――「見上げると首が痛くなるよ」
他愛のない会話が思い出される。拭いきれない土がこびりついた父親の爪が思い起こされる。枯葉のように降り積もった記憶が風に吹かれ、かさかさと音を立てる。
「タオ、ちょっといいかい」
ウィンロウでの二週間が過ぎたある日、多生はチューターのケラー先生に呼び出された。
「きみはまだ、所属クラブを決めていないね」
木曜日の午後まるまると、授業後週二日はアクティヴィティーの時間で、先週までに何のクラブにするか決めなければならなかったのに、多生はまだ届け出をしていなかった。5学年合同の、部活のようなもので、ほかの生徒は連れだって見学に行ったり、お互いどれを選ぶか相談し合っていた。上級生が目星をつけた生徒のところには、早くも勧誘者が来ていた。オリーのように。
同室の中で一番おだやかで笑顔を絶やさず、口数は多くないが華のあるオリーは、キングフィッシャー寮の中でも自然と新入生のリーダー的な存在になっていた。シェパーズを務める2年生は、特定の生徒に対しての注意や忠告がある場合も、まずオリーに言っている。
「わかりました。ぼくから伝えておきます」
オリーは嫌な顔ひとつせず、いつも笑顔で答えていた。
多生もシャワーの時間が長いことを、オリーを通じて指摘された。ハウスのシャワールームには6人分のスペースしかないので、夕食の前と就寝前は列ができる。
「でもね、夜、最後に使うのだったら、長くても構わないとぼくは思うんだよね。食事前は一番シャワー室が混み合うからその時間は避けて、ね」
多生の立場に立って、オリーは具体的な提案もしてくれた。
「そうする」
尖った口調で憮然と多生が言っても、オリーは「ありがとう」と微笑んだ。
そんなオリーが上級生に人気があるのも頷ける。他の生徒とうまく折り合いをつけ、かつちゃんと自分の意見も述べる。精神的にも安定していて、社交性も申し分ない。そうした人材は誰しも欲するだろう。オリーのもとには運動系クラブからも文化系クラブからも、勧誘が殺到した。が、当のオリーはすでに何のクラブに入るか決めていたようで、いずれも丁寧に断りを入れていた。
「演劇部に入って衣装を担当したいと思っているんだ」
オリーの家は代々、紳士服の老舗メーカーだという。優れたデザイン、縫製の美しさで、英国紳士を作り上げるブランド――として名高いらしい。そういえば、オリーは制服以外で過ごすときも、きちんとノリのきいたドレスシャツを着て、生地も仕立てもよさそうなトラウザーを履いていた。
「いずれはぼくもデザイナーになりたいと考えていて」
授業でも演劇はあるがリーディングと研究が主なので、アクティヴィティーで本格的に取り組みたいらしい。
部屋の中で交わされる会話を小耳にはさんでいたから、誰が何に入ったのか、多生は知っていた。
「ぼくはフィッシングにしたよ。授業が大変だから気分転換になるものがいいと思って」
「おれもフィンと同じ」
「ジュード、同じにしないでよっ」
「おまえにはおれがいないとな」
「いなくても、大丈夫っ」
フィンとジュードがお決まりのやりとりをしていると、コナーが言った。
「フィッシングと似てるけど……ぼくはフェンシングにした」
お菓子好きのコナーはクッキングを選ぶのかと思っていたが、彼はジュニア大会で優勝をするようなエペの選手らしい。エペは相手を早く突いたものが勝ちなので、リーチが長いほうが有利だ。背の高いコナーには向いている。
「コナーがオリンピックに出るときは応援に行くよ!」
フィンが言うとコナーは真顔で頷いていたから、本人も少なからず自信があるのだろう。
イーライは「ウィンロウに来たならクリケットだろ」と小馬鹿にするように言い、場を白けさせていた。
「そうだね。ここはクリケットが強いので有名だもの」
そうオリーが取りなしていたことを、多生がぼんやりと思い出していると、ケラー先生が心配そうに尋ねた。
「まだ決めていないのには何か理由があるのかい?」
咎める口調ではなく、言ってごらんと促しているように。
「……特に興味があるものがないだけです」
「なるほど。……だったら」
少し思案してからケラー先生は続けた。
「きみが新しいアクティヴィティーを提案してもいいんだよ」
「……新しい?」
「ああ。今までも在校生たちがちょっと変わったものを立ち上げているよ。たとえば、魔法研究会、ベジタリアン部、飲酒が許される18才以上に限るけどワインとチーズの研究会、なんていうのもある。きみだったら、そうだね、オリガミ研究会なんてどうだい?」
多生が試験の際に、折り紙を披露したことをケラー先生はちゃんとチェック済みらしい。
「……でも、ぼくが立ち上げたとしてもほかに希望者がいるかどうか」
多生は肩をすくめてみせた。
「きみひとりだとしても構わない。今は希望者がいなくても、来年以降、参加する生徒がいるかもしれない」
確かに折り紙は好きだが、ひとりで延々と紙を折る様を想像して、多生は気が重くなった。
「今すぐには決められないかもしれないね。もう少しだけ猶予をあげよう。もし、きみがオリガミのアクティヴィティーを立ち上げたなら、わたしが参加することを約束するよ」
先生と二人きりのアクティヴィティーなんてひとりより、もっと気が滅入る。
「オリガミでなくても、もちろんほかのものでもいい。ただ、きみが試験でオリガミを披露したという話を聞き、わたしがすばらしいと感じたことは伝えておきたい。きみはこの学校に合格するにはどうしたらいいかを考えた。どうすれば自分という人間をアピールできるかを。そして考えついたことを実行した。それこそが未来を切り拓く方法だ」
ケラー先生は、多生が疎外感を抱いていることに気づいているのだろう。だからきみは合格に値する、ここにいていい人間なのだと暗に言ってくれたのだ。でも、多生は、表には出していないつもりの自分の気持ちを見透かされていると思うと、消え入りたくなる。
「……わかりました。ありがとうございます。翌週末までには決定します」
多生は固い口調で会話を打ち切った。
自分もフィンたちと同じフィッシングにしようかと、多生はぼんやりと思った。釣りなら、他の生徒とあまり関わらずにすみそうだ。ただ、同室の人間と同じというのは何だか煩わしい。
次の日曜も多生はひとりでハウスに残っていた。
校内散歩もいささか飽き、そしてあまりに空がきれいな秋の日だったので、どこかに出かけようかと多生は考えた。バスに乗れば駅までは1時間。駅の東には中世の街並みが残っている通りがある。ぶらぶらするのは気晴らしになりそうだが、日曜なら観光客も多いだろうし、ウィンロウの生徒に出くわす確率も高い。外出の際は制服を着用し、ハットもかぶらねばならないので、すれ違えばすぐにわかってしまう。好んでひとりでいるのに、ひとりでいるところを見られたくないという心理が何なのか、多生は自分でもよくわからない。
ぼんやりと窓の外を見ると空き地が目に入る。この一画はかつて校内博物館が建っていたのだと聞いた。ウィンロウの歴史を示すものや、生徒たちの保護者や代々の卒業生たちが寄贈した考古品や美術品などが所蔵されていたのだという。建物が老朽化したので、価値のあるものは別の博物館に移し、昨年、取り壊したが、まだ跡地をどうするかが決まっていない。
宙ぶらりんの空いた土地。やはりぼくと似ている。多生は目をそむけた。
――さて、どこへ行こう。
バスに乗ることなく歩いて行ける場所でどこか適当な場所がないか検索しようと、多生はスマートフォンを取り出した。腹も空いてきた。日曜のランチだけは食堂が閉まっている。生徒たちは朝食時に出たものを取っておくか、どこかに食べに行くかしている。いつもはこの日だけ用意されている紙のボックスに、多生はトーストやソーセージを入れたりしているのだが、今日は朝食そのものをパスしてしまった。
学校のすぐそばにはあまり商店がなく、ファームのほかには、オートキャンプ場やゴルフ場、養魚場や自動車学校などの施設が点在しているだけだ。歩いて30分ほどの道路沿いにダイナーがあった。そこでハンバーガーでもテイクアウトしようかと多生は考えた。
マップアプリが示す通りのルートを辿り、無事、多生は昼食を手に入れ、川沿いまで歩き、分厚いマッシュルームバーガーを頬張った。そして、陽にきらめく大きくうねった川の写真を撮った。それを沙理に送る。一週間に一度だけ、多生は沙理にメッセージを添えず、写真だけを届けていた。何も連絡しないとかえって面倒だと考えて。一応の生存報告。すぐに沙理から返信がきた。こちらも写真付きだ。沙理とイーサンとアーロが家でブランチを取っている。完璧に幸福そうな日曜の昼。そこに多生が入る隙間はないように思えた。
少し先にあるスーパーマーケットとホームセンターを覗いて帰ろうと、多生は道路沿いに戻った。日本の郊外にもよくあるような複合商店だ。広い駐車場の前に、ドでかい看板を提げた大型店が連なっている。その一角に園芸店があるのに気づき、目をやり、多生はどきりとした。父親と同じガーデンエプロンをつけている店員が見えたからだ。シャベルや剪定用のはさみが入る大きなポケット、胸にはスマートフォン用の小さなポケットがついているところが父親のお気に入りだった。多生は父親――万生の言葉を思い出した。
――「イギリスへ留学していたときに買ったんだ。ハードな作業にも繰り返しの洗濯にも耐える、丈夫なエプロンなんだ」
万生と沙理は二十代のころ、ロンドンから電車で1時間半、南西にある街で出会った。万生は園芸ビジネスがさかんなその街でガーデニングの勉強をするため、沙理はインテリアの勉強に来ていたのだという。日本に戻って二人は結婚した。万生は地元である琵琶湖の近くにある園芸店に勤め、沙理もリフォーム会社に就職した。だが、沙理はまたイギリスへ渡ることを強く望み、そうではない万生と次第に心が離れていった。
多生は両親が結婚式を挙げたときの写真を見たことがある。白いウェディングドレスを着た母親は、清楚なブーケを手にしていた。ユリと、ベロニカと、カスミソウ。母親が好きな白い花が三日月型にデザインされていた。
「クレッセントスタイルっていうんだって。全部、万生が育てた花だったんだよ」
多生は、母親が父親のことを、「万生」と名前で呼んでいるのが好きだった。花にも木にも草にも、ひとつひとつ名前がついている。名づけられたものの固有さを、自分の母親は愛しているのだと感じられた。
写真はリビングのチェストの上に飾られていたが、いつの間にか取り去られていた。そして、その頃には、沙理はもう「万生」と呼ばなくなっていた。
「お母さんとお父さんね、これからは別々に暮らすことにしたの」
そう聞かされたとき、多生は問いたかった。
――結婚式を挙げたあの日あの時、父さんと母さんは永遠の愛を誓ったはずだ。あったはずの愛も取り去ってしまえるの?
万生が琵琶湖からほど近い自宅の小さな庭で育てていたのは、全部、白い花ばかりだった。沙理のためだった。愛する妻を喜ばせるためだった……はずだ。その気持ちはどこへ消えてしまったのだろう。
多生が沙理に手を引かれ、家を出て行くときには、その花々はすべて刈り取られていた。
家に帰ってくると、春夏秋冬、何かしら白い花が咲いていた。その風景ももうどこにもない。
本当は多生は父と暮らしたかった。
「ここにいていいでしょ。ぼく、父さんとこの家で暮らす」
「……それは、できない」
「どうして……」
「母さんと暮らす方がおまえにとってはいいんだ」
「どうして?」
「父さんは……花しか育てられない」
「同じだよ。ぼくがいていい場所と、水を与えてくれて。病気にならないように気をつけてくれて。なるべくお日様が当たるように。嵐のときはシートをかけて。そうしてくれればいいんだ」
「でも……おまえは花じゃない」
多生は父親に拒絶された気持ちになった。捨てられたと思った。生まれてから死ぬまでずっと、一生涯、この父親の息子だと思っていたのに。親子の絆さえ永遠ではない。家族3人で暮らした家を出てから、多生は父親と連絡をとっていなかった。
「……きみ、何か欲しいものがあるの?」
――ぼくが欲しいもの?
我に返った多生が結んでいるタイを見て、店員が言ったのだった。
「新入生くんか。ぼくもウィンロウの卒業生だよ」
多生は驚いて店員のいでたちをまじまじと見た。
エプロンの下はグリーンのトレーナー、下はカーキ色のカーゴパンツ。長いとび色の髪を後ろでひとつにまとめ、三つ編みにしている。肌は日に焼け、そして多生の父親と同じように爪には黒い土がこびりついていた。
次に店員は多生のハットのリボンについたマークに目を留めた。
「寮はキングフィッシャーか。バクストン先生はお元気?」
「え……あ……はい」
ハウスマスターの名前まで知っているとは、本当に卒業生らしい。
――ウィンロウを出て、園芸店で働いている?
多生は店員の後ろに見える店に視線を移した。大きな温室の前にグリーンアーチがかかっている。隣には『ロイド・ナーサリーズ』という看板がかかった深い緑色の建物があり、前には様々な観葉植物が植えられた鉢が並んでいた。そちらも同じ店のようだ。
「きみ、昼食はすんだ?」
「あ、はい……」
「じゃあ、よかったら、お茶でもどう? 今日は陽気がいいから冷たいハーブティーを淹れよう」
確かに多生はのどが渇いていたが、どう返事したものか迷い、突っ立ったままだった。
「先輩としてごちそうするよ。おいで」
断る理由をうまく考えつくことができず、先に立って歩き出した店員のあとに多生は従った。
緑色の建物に入ると、可愛らしい園芸用品が並んでいた。カラフルなユニオンジャックのジョーロ、クラウンを戴いた鳥のオブジェ、様々な形の鉢。作業用の手袋も色とりどりで、壁を飾るアートのようにディスプレイされている。植物や虫に関する本も置いてあった。左奥にはおそらく植物由来のものであろうコスメティックや、中2階にはちらりとキャンプ用品も見える。
店内中央を抜けると、中庭に出た。そこはこじんまりとしたイングリッシュガーデンを見ながらお茶のできるカフェスペースになっていた。近くに住む人たちなのだろうか、家族連れや若い夫婦たちがサンドイッチを食べたり、お茶を飲んだりしていた。
「そこに座って」
示されたテーブルの上には小さな鉢が置いてあった。ギザギザの小さな葉がこんもりと茂り、鮮やかなオレンジの丸い花をたくさんつけている。
「……フレンチマリーゴールド」
「そう! よく知っているね。花が好きなんだ」
――花が……好き?
多生は父親が勤めていた園芸店によく遊びに行っていた。そこで働く父親を見るのが好きだった。父親を喜ばせたかったから、花の名前をいくつも覚えたに過ぎない。
店員が運んできた冷たいハーブティーはレモネードのような味がした。香りも爽やかで、フレッシュな心地になる。
「うちのオリジナルブレンドだよ。レモンよりレモンの香りがするというレモンマートルに、レモンピール、それからジンジャーやエルダーフラワーを混ぜてるんだ」
ガーデンも手入れが行き届いていた。この国に留学していた万生も、イングリッシュ風の庭をよく手がけていて、完成間近になると店の車に多生を乗せ、説明するでもなく自慢するでもなく、自分が造ったエクステリアを見せてくれた。
ハーブティーを飲み干すと、店員が言った。
「学校まで送っていこうか?」
さすがにそこまで甘えるわけにはいかない。多生は立ち上がり、頭を振った。
「歩いて帰ります。ごちそうさまでした」
――そういえば、こっちに来てから園芸店に入るのは初めてだ。
カフェを出た多生は少し店内を眺めてから、温室へ行ってみた。蒸れた空気が肌を覆う。天井まで葉をつけた蔓が這い、その下には整然と花や鉢、苗や木々が並んでいた。みずみずしい細い茎を伸ばしたハーブや菜園用の苗、胡蝶蘭やサボテンのコーナーもあった。
乾いていた喉が潤ったせいか、たくさんの植物の生気に触れたせいか、多生の気分は少し浮き立ってくる。
手前の籠の中に安売りされている球根があった。「コルチカム」と書かれた札がつけられている。父親が働いていた園芸店でも見たことがあった。秋にクロッカスに似た花をつけることから、オータムクロッカスとも呼ばれている。植える時期が迫っているので値段を下げられているのだろう。玉ねぎのような球根からはもうすでに白い茎が少し伸びていた。この中のいくつかはきっと誰かの庭に植えられることもなく、捨てられてしまうのだ。
多生が球根の前に立っていると、先ほどの店員と同じエプロンをつけた初老の女性店員が声をかけてきた。
「このコルチカムというのはね、土に植え付けるとすぐに茎が伸びて、花を咲かせますよ。だからね、気の短い人にはうってつけ。でもね、大きな花を咲かせますよ。早春に咲くクロッカスよりね」
どんな花か、多生はスマートフォンで検索してみた。細く長い花びらが空に向かって、ピンと伸びている。白や紫のものもあった。画像とともに花言葉が出てきた。
「わたしの最良の日々は過ぎ去った」
この花は自分だ。そう思った時、多生にはある考えが浮かんだ。
その日から毎日、寮の窓から多生は空き地を眺めるようになった。
『ロイド・ナーサリーズ』へ行った日曜日、多生はコルチカムの球根を3つ買ったのだ。そして自分のような花を、自分のような宙ぶらりんの土地に植えた。本当は籠の中の球根全部を手に入れたかったが、自分の小遣いの額を考えると無理はできなかった。
コルチカムは球根からにょっきり茎が出るその独特の姿から、「裸の貴婦人」とも呼ばれているらしい。それに、実は球根や種などには毒を含んでいるという。多生はこの花がますます自分のように思えた。
誰も植えたことすら気づいていない花。雑草の中にまぎれこんだ秘密の貴婦人。
初老の女性店員はすぐに茎が伸びて、花を咲かせると言った。それはどれくらいだろう。ウィンロウに入ってから、多生は初めて、明日を待ちわびるようになった。
しばらくすると、土の中から青白い茎が3つ伸びてきた。
――花の色は何色だろう。ピンク? 白? 紫?
無事に咲きますように。途中で枯れたりしませんように。多生は心の中で毎日、祈った。
結局、多生はオリガミのクラブを立ち上げることにした。
美術関連の本が並べられた美術資料室をケラー先生が確保してくれ、アクティヴィティーの時間になると多生はそこで、ひとりで折り紙を折った。ケラー先生が文具店から取り寄せてくれたカラフルなラッピング用紙で。隣はギャラリー付きのアート教室になっていて、絵画系クラブの生徒たちが絵を描いている。
約束通りケラー先生は顔を見せてはくれるが、ほかにいろいろ仕事があるらしく、「今日は何を作るんだい?」と多生の手元をしばらく眺めると、いつもあわただしく教室を出て行った。
しん、とした室内にカサリカサリと硬い紙の音だけが響く。コルチカムの球根の外皮のように。
多生は美術資料室へ足を運ばなくなった。アクティヴィティーの時間、ハウスの自室に戻り、スマートフォンでゲームをしていた。ケラー先生に会うたびに何か言われるんじゃないかと、身構えたが、先生はオリガミクラブについて何も言わなかった。
数日、激しい雨が続いた日の後、多生は朝食の前に空き地を見に行った。球根がどうなっているのか心配になったのだ。
空き地の雑草には雨粒がくっつき、秋の陽を浴び、輝いていた。
それよりも輝いている麦の穂のような髪がなびいている。背の高い誰かが立っていた。
多生は心臓を射抜かれたように、その誰かを見つめた。
なだらかな肩の線、長い脚、そして優秀な生徒しか着用を許されないロングジャケットを着ている。
誰かは気配を感じたのかゆっくりと振り返った。
その人の鮮やかなプラチナムブルーの目を見たとき、多生はあたり一面にネモフィラの花が咲いたように思えた。彼の青、花の青、空の青。すべてが一瞬にして押し寄せてくるようで、多生は息が詰まりそうになった。
彼は驚いたように多生を見た。直後、多生はさわっと一面の花が揺れるような気がしたが、それは彼が笑みを浮かべたからかもしれない。
「……前にも会ったね、花の前で」
――前に? 花の前で?
思いがけない彼の言葉に、多生は必死に記憶を探った。
彼はそんな多生の様子を少し面白そうに眺めている。
「ヒントをあげよう。本物の花ではないよ」
多生はますます混乱する。偽物の花というのは何を指すのだろう。
もう一度、彼を見て、多生はハッとした。
そう。花だ。確かに花の前でぼくらは出会った。『青い花瓶の花』。そう題されたブリューゲルの絵の前で。
暗い色で塗られた背景から、ふわりと浮き上がってくるような40種類もの花。異なる季節に咲くはずの花々が一緒に描かれ、中には萎れているものもある。咲く花もあれば、枯れている花もある。生命力と死とがひとつのキャンバスに共存している絵。この絵が描かれた17世紀には人生の虚しさを表す静物画が多く描かれていたという。それらはラテン語で虚しさを意味する、「ヴァニタス」絵画と呼ばれていた。
昨年の冬。多生は、新しい家族とクリスマス休暇でウィーンを訪れた。
「お城を見に行きたい!」
もはやマイナスになろうかという気温の中、義弟のアーロははしゃいでいた。家族みんなでウィーン美術史美術館を回っていたのだが、アーロは早くシェーンブルン宮殿を観に行きたがっていた。
多生は「寒くてたまらないから」と主張し、美術館にひとり残り、一番印象に残ったブリューゲルの絵の前にもう一度足を運んだのだ。
そこに――彼がいた。
黒いロングコートを着込み、同じ色の帽子を被っていたので、言われるまで、目の前にいる人と同じだとは多生にはわからなかった。
静かにその絵を見つめていた彼は、先ほどと同じように多生を振り返った。
描かれた中国の磁器だという花瓶より、はるかに明るい瞳。だがその瞳は、ブリューゲルの絵と同じように虚しさをたたえていた。
でも、今、多生を見ているその目は愉快そうに輝いている。
「この花を見に来たの?」
彼の視線を追うと、紫の花が三輪咲いていた。
「咲いた……咲いてる……」
葉のないすっと伸びた茎に咲いた花は、神秘的にさえ見える。多生の頬がほころんだ。
「きみが植えたのかな?」
問われたが、多生は黙ったままだった。別に規則違反ではないだろう。空き地に球根を植えるのは。でも、こんな子供っぽい、いたずらめいた行為を見つかってしまったことを多生は少し恥じていた。
「きみはたしかコンスタブル家のご子息だね」
名前を知られていることを意外に思い、多生は彼を見た。
「新入生名簿を見たんだ、写真付きのね。でも、ファーストネームまでは覚えていなくて。きみ、名前は?」
彼が結んでいるタイは黒。5年生、最上級生だ。
多生は小さな声で「タオ……」と呟く。
「タ、オ?」
小さくコクリと多生が頷くと、彼はもう一度、噛みしめるように口にした。
「タオ……」
柔らかく、心地よい声だった。
「きみの秘密の花園を発見してしまって悪かったね。内緒にしておくよ。でも、また、ぼくがこのコルチカムを見に来ることは許してもらえるかい?」
多生はその問いにも答えなかった。答えず、反抗期の子供のように立っていた。
いいんだよ、というように彼は優しい眼差しで多生を見返している。
「そろそろ朝食に行かないとね。じゃあ、また」
ジャケットの裾をひるがえし、彼は去って行った。 歩き方も彼の容貌と同じように美しかった。
彼の名前を多生はイーライ――多生はミスター・シニック(皮肉屋)というあだ名をつけた――から聞いた。
朝の礼拝を終え、教室へ向かう途中、ネモフィラの君が多生のそばを通り過ぎた。
「おはよう、タオ」
その朝の風と同じように涼やかに彼は言った。
多生は声をかけられたことにびっくりして、立ちすくんだ。
「きみ、彼の知り合い?」
そばにいたイーライが恐れおののいたように多生を見た。
「……まぁね」
素っ気なく答えて多生が行こうとすると、イーライは餌を逃さないと決意した魚のようにぱくぱく口を動かして、さらに聞いてきた。
「どういう?」
「……きみに説明する必要がある?」
「だって、きみ……、きみがベンジャミン・ローレンスと知り合いだなんて!」
悲鳴にも近い声でイーライは言った。
「……どういう意味?」
「どうも、こうも……ベンジャミン・ローレンスだよ!?」
イーライは彼のフルネームらしい名前を繰り返した。
「だから、誰なんだよ……」
ぽつりと多生が呟くと、イーライの表情に皮肉屋らしさが戻った。
「なんだ。きみは彼を知らないってこと? じゃあ、親しい間柄というわけじゃないんだ。なるほど。ベンジャミンは名簿を見て、新入生の名前をすべて覚えているらしいからね。いつもひとりでいるきみを気遣って声をかけたということかな。彼ならあり得る。なにしろ彼はヘッド・オブ・スクールだから」
多生のそばにぴったりと寄り添いながら、イーライは自分を納得させるようにしゃべり続けた。お陰で嫌でもベンジャミンが何者かということが理解できた。
ヘッド・オブ・スクールは最上級生の首席が務める、学校の代表だ。対外的な仕事を任されることもあり、学校行事の折に賓客や保護者を案内することもあるという。
ベンジャミン・ローレンスは今年度の生徒の頂点。校内ヒエラルキーのトップとして君臨している。家柄もよく、代々の伯爵家。勉強のみならず、スポーツもできる。おまけにエルフのごとく美しい。それゆえ信奉者も多く、先生方にも一目置かれているらしい。
そんなウィンロウの王様のような上級生が多生に声をかけるということは、イーライにとって、驚天動地の大事件であったろう。が、そんなに驚くことではなかったのだという結論に至り、安心したイーライを、しかし、ベンジャミンは揺さぶり続けた。
「あれ、また、きみにだけ挨拶したね?」
「……礼拝のとき、ベンジャミン、きみの隣に来たけど……」
「きみ、寮の裏手で朝、ベンジャミンと密会してるって本当ぅぅぅ!?」
ベンジャミンはコルチカムの花を時折、見に来ていた。当然、多生と出会うことになる。その様子を見ていた生徒がいたらしい。雑草に埋もれた三輪の花には誰も気づかないのに、憧れの最上級生が冴えない新入生と並んでいる姿は、目敏く見つけることができるようだ。
「ねぇ、どういうこと? どういう関係?」
部屋の中でもしつこく尋ねてくるイーライを黙らせようと、多生は言った。
「別に何も関係ない。彼が勝手に近寄ってくるんだよ。むしろ、ぼくは迷惑してるんだ。だって、きみにこんなにしつこく質問されるんだからね!」
見かねたオリーがイーライの肩に手を置いた。
「イーライ。そんなに気になるのなら、タオじゃなくてベンジャミンに聞いてみたらどう?」
「……そんなこと……できるわけないじゃないか」
「だったらタオにも聞かないほうがいいんじゃないかな?」
おだやかな口調で言うオリーと、無言で同調していたフィンを見て、イーライは渋々、口を閉じた。
――本当にもう、話しかけないでほしい。
ベンジャミンに声をかけられると、ほかの生徒たちが一斉に多生に注目する。そして、イーライと同じような疑問を抱くのだ。
どうしてあいつに? あいつみたいなやつに?
向けられた視線が小さな矢のように多生に刺さる。自分とベンジャミンの隔たりを、差を、思い知らされるようで多生はいたたまれなくなる。
――もう花を、ぼくの花を見に来ないで。
そう言ってしまおうと多生が決意し、肩を怒らせ、眉を吊り上げ、決戦に挑むかのように裏庭にやって来たとき、麦の穂の髪を持つ先客はいたわるように振り返った。
「タオ、気を落とすんじゃないよ」
コルチカムの花は枯れていた。
多生の上げていた肩も眉も、下がった。
花は枯れる。当然だ。それが道理だ。でも、そのあたりまえを飲み込むことができず、多生は呆然とした。
「残念だけれども、美しく咲いていたよね」
「でも……結局、枯れてしまう」
そう。花だけじゃない。楽しかった記憶も、家族の日常も、父さんと母さんの愛も。あったはずのものが消えてしまう。輝きを失ってしまう。すべては移ろい、変化し、やがては消えてしまう。
渦巻いた感情が多生を巻き込む。
「みんな、そうだ。全部、そうだ」
泣き出しそうな顔で多生はしゃがみこみ、立ち枯れた花の球根を抜いてしまおうと手を伸ばした。
「きみは……ワーズワスの詩を読んだことがあるかい?」
ベンジャミンはここではない、どこか遠くを見たまま、多生に聞いた。
イギリスの代表的なロマン派詩人の名を、多生は一般教養として知っていた。だが、その詩までは覚えてはいない。
「草原が輝いていたあの頃を、花が咲き誇っていたあの頃を、取り戻せはしない。だとしても、嘆くことはない。その奥に秘められた強さを見出そう」
ベンジャミンが多生を慰め、励ましてくれているのだということはわかった。だが、多生は二度と取り戻せないものの、その奥にある強さが何であるかはよくわからなかった。
――失ったものの中に、悲しみ以外、何があるの?
多生の目の縁が赤くなってくる。
ベンジャミンはしゃがみこみ、多生の手に、そっと自分の手を添えた。
「その球根、抜かないで、そのままにしておいたらどうかな。コルチカムの葉は、花が終わったあとに出るそうだよ。その葉で冬の初めまで光合成をして、球根に養分をため込むらしい。そして、また次の花を咲かせるんだ。知っているかもしれないけれど」
伸ばした手を多生は引っ込めた。
――花が枯れた後に葉が出てくる?
「……それは、知らなかった」
「ぼくも先日、知ったばかりだよ」
「ヘンな花」
「興味深いよね」
この花は自分のようだ。そう思っていた多生は、ベンジャミンの言葉が自分自身に向けられているように感じてしまう。
「タオ、オリガミクラブはもう辞めたのかな」
急に話が変わり、しかも参加していないアクティヴィティーの話になり、多生はどきりとした。ケラー先生がベンジャミンに話したに違いない。もしくは、ケラー先生が、キングフィッシャー寮のヘッド・オブ・ハウスであるヒューゴ・マッキンリーにまず相談したのかもしれない。ベンジャミンの周りには、いつも、成績優秀者しか着ることができないロングジャケットを羽織った一団がいた。その中にヒューゴの顔もあったことを、多生は覚えていた。
「アクティヴィティーは全員、参加しなければならない」
「……そんな事わかってる」
どうしてコルチカムの話から、アクティヴィティーの話に切り替わったのかはわからず、多生は戸惑った。
「ぼくがガーデンクラブを立ち上げたら、きみ、参加する気はある?」
話はつながった。だが、あまりにも思いがけなく、多生は立ち上がってベンジャミンを凝視した。
「ガーデンクラブ?」
「実はね。ここには、来年、クリケット用の第二グラウンドが造られることが決まった」
クリケットのグラウンドは、男子の国際規格では、直径約120mほどの円形。野球場よりもやや大きい。たしかにこの空き地は適した広さだ。この土の上に、いずれ芝生が敷かれるのだろう。
「でも、あと一年、ここは更地だ。その間、きみがここに花を植えるのはどう?」
「ここに……」
――自由に花を植えていい?
コルチカムの球根を植えたときに感じた高揚が、多生の胸に再び湧き上がった。
「ぼくはすでにクリケットクラブに参加しているから、掛け持ちになるけれど」
ベンジャミンと二人で新しいクラブを立ち上げれば、また周囲から詮索を受けるだろう。それでも多生はわくわくする気持ちに抗えない。
――ここがぼくの庭になる。
ハウスの部屋から見える荒れた土地が緑に覆われる様を、多生は思い描いた。草の上を渡る風さえ想像できる。カサカサした紙の音よりも、葉擦れの音の方がいいに決まっている。
「申請すれば費用も下りる」
――それで、何を植えよう。
もう考えを巡らせ始めていた多生の顔を、ベンジャミンは少し背をかがめ、楽しそうに覗きこんだ。
「何を植えようか、考えているね」
胸の内を読まれた多生は、頬を捻じ曲げた。圧倒的に先輩で、比べ物にならないほど大人である彼。身長の差より、成熟度の差のほうが滅茶苦茶に大きい。
その悔しさを隠すこともできず、多生は答えた。
「……ベンジャミンは植えないよ。ベンジャミンは植物を覆うほど成長して、栄養を遮断し、やがては枯らしてしまう。だから、ベンジャミンを、絞め殺しの木って呼ぶ人もいる」
多生はその話を父親から聞いたのだ。ベンジャミンの鉢を客に届けるため車を運転していた父親の隣に座っていたときに。
多生の精一杯の抵抗を、その名を持つ彼は、微笑みでくるんだ。
「それは、知らなかった」
「……ヘンな花だよ」
「興味深い、かな?」
多生は目をそらしたが、十分にわかっていた。彼は植えたのだ。多生の胸の中に、小さな希望を。
もうそれは、芽生えている。