ツルネ ―風舞高校弓道部―
序章
これはなんの音だろう。
風よ、集えと、誰かが歌っている。
紅く色づいた葉が舞い踊る中、少年はどこからか聞こえてくる不思議な音色の主を探した。小学校にあがる前といった年ごろだった。澄んだ瞳は、見る者の足を止める力を秘めていた。薄暗い森をさまよった者が、川面の煌めきに心奪われるように。少年の瞳をこれほどまでに輝かせたものがそこにいた。
射手だ。的に向かって矢を射る者。
的は二つ。白の弓道衣に袴姿の、中年と年老いた男の二人が交互に矢を放っていた。
矢が離れる瞬間、カーンという高い音が響く。
その美しい音を追うように、的に矢が刺さる音がして、さらに「よし」という声援がかぶさる。声を出しているのは観客席にいる高校生の集団で、まるで輪唱をしているようだ。
母に連れられて偶然立ち寄った神社での一場面だった。鎮守の杜の奥にある弓道場周辺には人だかりができており、ちょうど決勝戦が行われていた。
遅れてやってきた母は、人垣のすき間から身を乗りだしている少年の肩に手を置いた。
「湊、こんなところにいたのね。突然いなくなるから、お母さん焦っちゃったわ」
「ごめんなさい。ねえ、お母さん、あれは何?」
「弓道の試合よ。一番多くあたった人の勝ち。同点一位になったときは、一人一射ずつ続けて矢を放って、最後まではずさなかった人の勝ちとなるの」
「へえ、おもしろそう」
「簡単そうに見えるけど、十射皆中――十射全部あたるなんて、ものすごーく上手い人でないとできないの。お母さんも高校生のとき弓道をやっていたんだけど、半分あたればいいほうだったわ」
「弓道ってそんなに難しいんだ……」
男たちは四射終えても勝敗がつかず、まわるコマのような模様の的から、白地に黒丸が一つの、ひとまわり小さな的につけ替えられた。さらに四射するも、やはり、どちらも的をはずすことはなかった。
にわかに会場がざわめく。
「これはえらいことになったな、ここまではずさないとは……。普段は審判席にいらっしゃる八坂先生が参戦されているからな。さすがと言おうか」
「遠近競射に切り替えないで、このまま射詰でいくようだから、体力的に若いほうが有利じゃないか?」などという会話が少年の耳に届く。
一人、食い入るように見つめている男子中学生の姿もあった。長い指がかすかに震えている。
少年は先ほどから一番気になっていたことを口にした。
「この『カーン』って音は何?」
「ああ、〈弦音〉よ。矢を発したとき鳴る弦の音なの。的に矢があたったときの『パン』って音は、的音って呼ばれているわ」
「ツルネ? 楽器みたいだ」
「そうね。楽器と一緒で弓や腕前によって音が違うの。もともとは弦音の中でも、特に冴えて余韻の美しいものを弦音と呼んでいたらしいわ。同じ人が同じ弓を使っても、いつも同じ音がするとは限らないしね。弓も人も繊細だから、お天気や心の状態にとても影響されやすいの」
「――ぼく、弓道やってみたい」
「ふふ、素敵ね。湊が試合に出たら、お母さんいっぱい応援しちゃうわ」
「ほんと? ぼくがんばるから絶対見に来てよね。約束だよっ」
「ええ、約束ね」
会場からため息が洩れた。二十射目で一人はずしたのだ。
一転、静寂があたりを包んだ。唾を呑む音がやけに耳につき、肌がひりひりと痛む。人々の関心は、射場に立つ一人の老人に注がれていた。
世界に比類なき長さを誇る美しい弓が、ゆっくりと引かれていく。
長い長い間のあと、矢は的へと放たれた。
天翔ける弦音。的音。
「よし」という人々の声。
鳴りやまぬ胸の鼓動。
ぼくも、あんなふうに弦音を響かせてみたい――。
大きな拍手に包まれたとき、少年はそう思った。
第一章 夜多の森
1
見上げると、湊の瞳には霞む青い空が映った。
十五歳という年齢にふさわしい、しなやかな体をトレーニングウエアで包み、山肌に雪が残る一本道を進んだ。梢のトンネルをくぐると、遠くに三両編成の電車がゆっくりと走る姿が見える。周囲の山々は萌黄色にけぶり、山桜の花がところどころ滲んでいる。
山笑う季節だ。芽吹く木々がまぶしい。
毎朝の日課であるランニングの終着地点は近所の公園だった。隅にある水道で顔を洗うと、Tシャツの裾をまくりあげてぬぐった。むきだしになった左脇腹からは、一筋の白い痣がのぞいている。
きちんと拭けていないため、前髪からは水がしたたり落ちていた。本来の彼ならば、このような横着なことはしない。タオルを忘れてしまったことと、ここから立ち去らなければならない理由が近づいていることを、察知しての行動だった。
近所に散歩といったラフな格好の少年が、湊の隣に立っていた。フルリムのプラスチックフレーム眼鏡はなじみのもので、知的で冷静な彼を象徴するものの一つだ。湊よりずっと大人びた印象を受けるのは、少年が十六歳の誕生日をすでに迎えているためだけではないだろう。
相手を茶化すような笑みを浮かべていた。
「おはよう、湊。春とはいえ、朝はまだ冷えるね」
「……静弥か、おはよう」
湊は静弥に会いたくないわけではなかった。むしろ親友と呼べる唯一の人物で、一番つきあいも長い。だが、トレーニング中はできれば会いたくなかったのだ。
静弥はそのことをわかったうえで、何食わぬ顔で言った。
「いつもは父さんの役目なんだけどね。今朝は忙しくて僕が代わったんだ」
「ああ、クマの散歩か」
この会話だけ聞くと、ぎょっとする人がいるかもしれない。「クマ」というのは犬の名前だ。バーニーズ・マウンテン・ドッグというスイス原産の山岳犬だ。暑さには弱いので、標高が高く、日本の中でも比較的涼しいこの土地は最適だ。
バーニーの部分をとって「バニーちゃん」とウサギみたいな呼び方をする人はいても、「クマ」と名づける人は滅多にいないだろう。静弥のセンスを疑うが、この名前をつけることを許可した家族も敬服に値する。
湊はクマにもあいさつをすると、クマはしっぽをパタパタとさせた。黒、白、茶のつやのある長い毛を持ち、目の上にある丸い茶色の毛が眉のようだ。抱きしめると、伝わる体温が心地いい。クマは湊の顔をペロリと舐めた。さらに湊の左脇腹に鼻を近づけて、見せろという仕草をする。
「こらっ、クマ、くすぐったいって。そこはもう大丈夫だから」
たしなめられるとクマはすぐやめて、湊のそばに座った。四年前はやんちゃな子犬だったが、やさしくて賢く育った。ご主人によく似ている。
二人と一匹は公園をあとにすると、裏の林へと入っていった。クマは人の役に立つことを喜ぶような犬で、ぼくについて来なさいとばかりに先頭を進んだ。車で行ける舗装された広い道があるがこちらのほうが近道で、途中からはひと一人がやっと通れるほどの狭い道となる。土地の者が行き来することでできた道、いわば獣道だ。
いつもと違う朝に調子を崩したのか、転びそうになった湊の腕を静弥がつかんだ。
「大丈夫? 入学式の朝にコケて欠席したら、華々しい高校デビューだね」
「うるさい」
「まあ、そのときはうちの特別病室で、僕がつきっきりで看病をしてさしあげよう」
「丁重にお断りしとくよ。静弥じゃ、何されるかわかったもんじゃない」
「そんなことないよ。ね? クマ」
クマは、肯定なのか否定なのかよくわからない返事を一つした。
静弥の家は整形外科医院で、湊の家の真裏にあった。鳴宮湊と、竹早静弥にとってこの日は、同じ高校の入学式だった。山間の小さな町なので、高校が一緒というのは珍しいことではない。だが湊はこのことを、つい先日まで知らなかったのだ。経済的な理由から近所の公立高校を選んだ湊と違って、静弥なら県内一の学校や難関私立校だって選べたのに。
何かすっきりしないものを感じつつも、湊はこれからはじまる新しい生活に思いを馳せた。
風舞高校入学式。
この地方ではまだ咲かないはずの桜が、湊たちを迎えてくれた。
春の訪れが早く浮かれているのは草木ばかりではなかった。式典のあと新入生を待ちかまえていたのは部活動の勧誘だ。赤やオレンジの色鮮やかなボンボンを持ったチアリーダー部の女子や、「パスは愛だ!」と書かれた応援幕を抱えた恰幅のよい男子など、どの集団も声を張りあげている。
早速、サッカー部につかまっている新入生の姿もあった。日焼けした肌に、眼光だけがやたら鋭い。その隣には人目を惹くアイドルのような少年もいて、しきりに女子マネージャーに手を振っている。
興味深げにあたりを見まわす静弥を横目に、湊は足早にその場を通りすぎようとした。ところが、いきなり、ひとまわりは大きい男に後ろから肩を組まれ、二人は身動きが取れなくなってしまった。
なんて強引な勧誘なんだと、 湊はムッとした表情を相手に向けた。すると、目の前には人懐っこい笑顔があった。デジャブに似た感覚を覚える。
「湊だろ? こっちは静弥! 久しぶりだなあ。まさかおまえらに高校で再会するとは思ってなかったよ。すっげえうれしい」
「って、もしかして遼平!? おまえ、デカくなりすぎだろ? 一瞬わかんなかった」
静弥も続けて言った。
「湊は気づいてなかったけど、クラス分け名簿に遼平の名前を見つけていたよ」
「俺は、静弥が新入生代表の宣誓をしてたからわかったんだ。やっぱ、静弥は今でも頭いいんだな、すげえや。湊はしばらく見ないうちに、ますますカッコよくなってるし」
「その、親戚のおじさんが、甥っ子たちをおだてるみたいなセリフはやめろ」と湊が言うと、遼平は伸びをしながら、心底不思議そうな顔をした。
「そうなの? 俺は見たままを言っただけなんだけど」
山之内遼平は小五で転校した幼なじみだ。体は大きくなったが、中身は無邪気な子どもそのままだった。他の人に言われたら嫌みに取れるような言葉も、遼平が口にすると笑いを帯びる。子犬になつかれて本気で怒る人は少ないだろう。
懐かしい顔に、緊張ぎみだった湊の顔もほころんだ。学校帰りに川で泳いで靴をなくしたとか、休診日に静弥の病院に忍び込んでテーピングで遊んで叱られたとか、幼少時の話をはじめるときりがなかった。兄弟のように過ごした面子だ。妙な連帯感がある。
興奮冷めやらぬ三人だったが、近づいてきた小柄な男によって会話は中断された。遼平の知り合いだった。
「トミー先生、どうしたんすか?」
「トミー先生?」と湊が言う。
「そ、うちのクラスの担任で森岡富男先生」
トミー先生はおじいちゃん先生だ。三人を見まわすと背伸びして、ググっと顔を近づけた。
「わしはとある密命を受けておってのお。仲のいい君たちを見込んで、白羽の矢を立てにきた。密命とはミッションのことじゃよ」
「ミッション!? なになに??」
湊はなんて胡散くさいと思ったが、遼平の目は好奇心いっぱいにキラキラと輝いた。
「じつはのお、この学校には弓道部があるんじゃが、最近はほとんど活動してなくての。校長から再建の命を受けたんじゃよ。弓道は個人競技と思われがちじゃが、皆の息がピッタリ合わんと上手く引けんのじゃ」
『弓道』という単語に、湊の心臓は高鳴った。
遼平は「それで、それで?」と、すっかりその気になっていた。
「俺の行ってた中学、武道必修科目で弓道が選べたんすよ。弓道の先生に『君は筋がいい』って褒められちゃってさ。高校入ったら本格的にやってみようと思ってたっすよ。それに、湊たちに影響されたのもあるかも」
「そちらのお二人は弓道経験者かね?」
「そうっすよ。鳴宮と竹早は、中学のとき弓道部っす。特に鳴宮は弓道がやりたくて、弓道部のある私立中学を受験したって聞いてます。昔から弓の話ばっかしてたし」
トミー先生は破顔した。
「弓道部のある中学は少ないから弓道経験者は貴重なのに、なんと三人もいっぺんに見つかるとはっ。わしの目に狂いはなかった。このミッションは成功したも同然じゃ。ではでは皆の者、まずは弓道場へ参ろうか」
湊は慌てた。勝手に話を進めてもらっては困る。
「待ってください。僕はどこの部にも入らないつもりなんです。母が亡くなっているので家事はほとんど僕がしていて、父の夕飯も作らないといけないですし……すみません」
湊の左脇腹にある白い痣は、母とともに交通事故に巻き込まれた際に負った傷の痕で、静弥がクマを飼いはじめたのは事故から一か月後のことだった。だが、すでに四年が経つ。無邪気なクマと、時間と、そして情熱を注いだあるものが、傷ついた湊たちを癒してくれた。傷痕が白くなっていることがその証だ。
じゃあ、なんで毎朝の走り込みを続けているの――?
湊には、静弥の声が聞こえたような気がした。だが、静弥は何も言わなかった。
「残念じゃのお。まあ、状況が変わったら、ぜひ見学だけでも来ておくれ。そちらの竹早くんと山之内くんはどうじゃね?」
「ぜひ、入部させてください」
「俺も俺もっ」
隣にいるはずの静弥が遠く見えた。
湊は部活動をやらない。静弥は弓道部へ入部する。
なんの問題もないはずなのに、ざわついた胸の内がおさまらない。静弥は振り返ると、真っすぐ湊を見た。
「先に弓道場へ行っているよ」
「おれはもう弓道はやらない」
「僕は知ってるよ。湊が大切なものを持ち歩いていることを」
湊は思わず鞄を押さえた。そして静弥のハッタリに引っかかったのだと気づいたとき、その場から立ち去ることだけが、湊にできるささやかな反撃だった。
クラスメイトや女子からの誘いも断り、湊は一人帰宅した。
父との二人暮らしだったが、静弥とその両親が親身だったこともあり、寂しいとか不便といったことをそれほど感じたことはなかった。トミー先生には家事が忙しいと言ったが、湊の父は家で夕食をとらない日も多いので完全な言い訳だ。鞄の中にトンボ柄の巾着があるのを確認すると、暮れゆく空の下へ飛びだした。
自転車に乗るのが好きだった。
風は冷ややかで、抱え込んだ言葉をさらい、疼く熱を冷ましていく。しばらくいくと長い坂にぶつかった。立ち漕ぎでのぼっていると、後ろから来た車がクラクションを鳴らした。ちゃんと端を走っているのに、鳴らされたりするのは心外だ。
目的地も決めずにふらふらと走りまわり、そろそろ引き返そうとしたとき、目の前に黄色い小鳥が飛びだしてきた。湊が走る前を一羽のキセキレイが飛翔する。道の両側は森だというのに、いつまでも舗装された道の、地面ぎりぎりを滑空している。
気がつくと、湊は見慣れぬ場所にいた。黄色い鳥は消え去り、代わりに「夜多神社」という古びた案内板が目にとまる。鳥居の袂に自転車を停めると、石段をのぼった。
そこは夜多の森と呼ばれる、コナラやミズナラなどの落葉樹が生い茂る森だった。見上げる湊を試すように木々は揺らぎ、ざわざわと音を立てる。薄闇の中、手を合わせて天に祈りを捧げているような新芽が光った。紅紫色のミヤマツツジの蕾は固く、茶色の帽子をかぶっている。どこからかホッホ・ゴロスケホッホという鳴き声が響いた。
森を抜けると、夜多神社にたどり着いた。一本の桜の木があり、足元は薄桃色に染まっている。社は古くこぢんまりとしており、人の気配はなかった。
幽霊でも出てきそうだな……。そう思ったとき、聞こえてきた音にはっとなった。
弦音だ、弦音が聞こえる――。
どこからか、カーンという高い音が聞こえてきたのだ。
大地から芽を出すと一夜にして天へ向かう竹のごとく、伸びやかで冴えた響き。弓で金属音のような音色が出せるなんて信じられない。弦音は、矢を発したときに弦が弓を打つことで鳴るといわれ、矢を離してゆるんだ弦が、元の形にピンと張り戻るときの音も弦音と考察される。
古い記憶と重なった。幼いときに母と見た、あのときの射手が引いているのではないかと。
拝殿の隣の建物には明かりが灯っていた。
「夜多の森弓道場」の看板が掲げられた日本家屋で、入口には作りつけの郵便受けがあった。かなりの年代もので、木は腐食し苔むしているところもある。早鳴りする胸を押さえて玄関前を通りすぎると、建物の右脇へと進んだ。
こんな夕暮れの森の中で弓を引いているのが人とは思えなかった。もしかしたら本当に幽霊なのかもしれない。いや、幽霊でもかまわない。
どうか、消えないでくれ。
おれが行くまで消えないで。
そう念じながら木々を抜け、屋外観覧ができる一角へとまわった。竹柵で仕切られた先をのぞくと、蛍光灯で照らされた広い射場が見えた。
白の弓道衣に袴姿の、若い男が一人。
さすがにあのとき見た射手とは別人だった。二十代くらいで、肩にかかる長さの髪を一つに結んでいる姿は神秘的でもある。
男は弓に矢を番えると、弦や矢に問題がないか目で確認した。右手で弦を取り、左手は弓を握る。的に顔を向けると、弓矢を持った両手を上へあげた。無風帯の日に、空に煙がゆったりと立ちのぼるような風情――弓道教本どおりの動きだ。
矢の長さの半分ほどを引いていったん止め、そこからさらに大きく引いていった。これを大三、引分けという。日常、言葉では「弓を引く」と使うが、和弓は持ちあげた弓を左右均等に押し開く動作をしている。
クライマックスは「会」だ。会とは、自分に一番適した長さまで弓を引き絞ったときの呼び名だ。矢が放たれるまでの長い間は、弓と人が一体化した瞬間。まさに人と弓が出会った瞬間だ。湊の目に映る男は、奇跡という演目を演じている役者のように優雅で――。肌が粟立つとともに、矢は的へと吸い込まれていった。
ど真ん中に的中だった。しかも、その一射だけではない。先に放たれていた五本の矢すべてが的に刺さっていた。その後、矢取りを終えるとまた六射し、そのすべてがあたった。
十二射皆中。
これが試合だったら優勝している。いや、優勝がどうとかより、とにかくきれいな射だ。男は弓を置くと正座をして、弽と呼ばれる手袋をはずした。
また矢取りに向かった男を見送ると、湊は大きく息を吐いた。汗ばんだ手のひらを上着にこすりつける。声をかけてみようか迷っていると、突然、頭上でギャッという声が聞こえ、思わず体がビクッと震えた。
「……なんだ、フクロウか。驚かすなよ」
「おまえ、何してんだ?」
人の声がした。
異変に振り返ると、先ほどの男が目の前に立っていた。涼やかな目元と高い鼻梁、上背があり、均整のとれた恵まれた体躯の持ち主だった。けれど音もなく近づくなんて、この男はいったい何者なのだろうか。
男は持っていた藍染の手ぬぐいを左腕に巻きつけると、木々に向かってかざした。「フウ」と呼ぶと、大きく羽を広げたものが降下してきて、男の腕にとまった。
羽ばたきが風を起こす。
立ち尽くしている湊を尻目に、男はハート型の顔をした存在に話しかけた。
「フウ、おまえのほうが驚いたよな。こんなところに人がいてさ」
「……すみません。あの、『フウ』ってもしかして、そのフクロウの名前ですか?」
「そう、いい名だろ? 昔、ケガをしたこいつの世話をしたことがあって、そのときにつけたんだ。熟考したんだぜ。あ、保護の許可は取ってるからな」
ものすごく安易につけられた名のような気がするのは気のせいだろうか。犬にクマと名づけるよりはましといおうか。
フクロウ科のフクロウは、鷹狩りに使われるオオタカと同じくらいの大きさがある。フウは男の長い指を甘噛みした。まだら模様の羽を撫でると、気持ちよさそうに大きな瞳を閉じる。
「ずいぶん懐いているんですね」
「懐くというより慣れるかな。俺が呼ぶとエサをもらえると思ってるんだよ。今日はないのに呼んでしまったからなあ。悪いな、フウ」
「エサって」
「ピンクマウス、皮を剥いだネズミ」
「ですよね……」
「さわってみるか? ただし大きな声は禁物な。フクロウは耳がいいんだ」
言われて、湊は恐る恐る手を伸ばした。頭から羽へと撫でると、フウはきゅうと体を縮めて、腰が引けたみたいな格好になった。
「なんか、ふわふわしてる」
「フクロウが音もなく飛べるのは、羽がやわらかいおかげなんだ。それよりおまえ、左手の甲から血が出てるぞ」
「えっ」
見ると、確かに血が滲んでいた。枝か何かで切ったのだろう。ヒリヒリと痛む。
「薬があるからついて来な」
「いえ、あのおれは……」
「まさかおまえ、俺を警戒してるのか? 別に薬代を請求したりしないから安心しろ」
男は目を細めて、ニッと笑った。
すべるように射場を行く男の後ろにつき従った。射場の脇正面は審判席で、十二畳ほどの広さに畳が敷きつめられ、床が一段高くなっていた。上座にあたるので、神棚や国旗などが祀られている。この審判席を通り抜けた右手奥が、この道場の控え室だった。
男は湊の左肩にフウを乗せた。予想より軽く、心地よい重みとともに、フウの足が湊の肩をしっかりとつかむ。爪がカットされていないので服に穴があきそうだ。湊の意識がフウに集中しているあいだに、男は小物入れの引き出しを開けた。
「さてと、薬はどこにあったっけ……あっ」
ガシャンと嫌な音が響き、引き出しごと中身があたりに飛び散った。今度はフウがビクッと震える。男は奥にあった薬を取りだそうとして、引き抜いてしまったのだ。
「あちゃあ、またやってしまった」
またということは、頻繁に引き出しを引き抜いて、中身をばらまいているということか。
「だ、大丈夫ですか?」
「へーき。これは最近のやわなのと違って頑丈だから。おっと、あったあった」
男は散らばった品々の中からちびたチューブを見つけると、湊に差しだした。塗り薬はかなり年季が入っていて効能が疑われる。
薬を塗っているあいだ、切れかかった蛍光灯がまたたいていた。湊とフウが天井を見上げると、それに気づいた男は言った。
「悪い、目がチカチカするよな。替えの蛍光灯はあるんだけど面倒くさくて。そのうち誰かが替えてくれるだろう」
「……おれがやります」
肩に乗ったフウを男へ返し、新しい蛍光灯を受け取ると、部屋の隅から脚立を出した。これまた年代物だ。
男は飄々とした口ぶりで言った。
「サンキュウ。いつもは切れるまでほったらかしなんだ」
「あなたの家はすべて、取り替え回数の少ないLED照明にしたらいいと思います」
「なるほど。おまえ頭いいな」
嫌みを言ったつもりだったのに、全然通じていないようだ。
男は射場の縁まで行き、屋外へ向かって腕を振った。フウは夜の森へと消えていく。それを見送ると、鞄から何やら取りだした。
「ひと仕事のあとは一杯やるのが一番。ほら、これは礼。ぐいっといってくれ」
「結構です。飲酒は法律で二十歳からと決まっていますし、お酒を飲むと脳が委縮するので」
「……おまえ、すごいな。なんて真面目なんだと言いたいとこだけど、よく見てみろ」
男が手にしていたのは、雪山の絵が入った缶コーヒーだった。
飲み終えると缶を脇へ置き、また的へと向かった。手持ちの矢を射終えると矢取りに向かう、その繰り返しだ。
美しい所作を、缶を手にしたまま見守った。湊の見物を気にとめるでもなく、帰れとも言わない。いつの間にか、傷の痛みも引いていた。
ノートに何か記入しているので尋ねた。
「何射あたったんですか?」
「○×はつけてない。矢数だけ」
「今、いくつ?」
「八十」
「八十射? いつもそんなにたくさん引いているんですか?」
「ああ。一日百射を毎日続けて、計一万射を目指してるんだ。今日で七十九日目」
「何か目的があるとか」
「特になし。いうなれば酔狂ってとこだな」
男はまた、三日月のように目を細めて笑った。
紺青の穹天に映える弦音。
自転車のペダルに足をかけると、頭上には月が輝いていた。
2
あれはなんだったんだろう。
あれは誰。
息を呑むほどの美しい射と、黒々としたフウの瞳が思い起こされる。
ネット検索しようにも、入力すべき単語が見当たらなかった。夜多の森弓道場はホームページを開設しておらず、県内にある弓道場一覧に名を連ねる程度だった。そもそも個人情報保護法のもと、所属している人を公開しているはずもない。こんなことなら男の名前くらい聞いておくべきだった。でも、名を聞いてどうするというのだろう。
湊は下校のため昇降口へ向かっていた。開け放たれた窓の外は明るく、部活へ向かう人々のざわめきが聞こえる。まだ遠い日暮れに目を細めると、風が凪いだ。
すると、またも背後から肩をつかまれた。もう確認するまでもないだろう。
「……遼平」
「おっす湊。何ぼーっとしてんだ?」
「おまえ、自分がデカくなってるって、わかってる? 重いんだって」
「わりい、つい癖で」
悪いといいつつ、肩にまわした手はそのままだった。反対の手は、通りすぎる人にひらひらと振っている。
遼平は小学生のころからよく肩を組む少年だった。人にベタベタされるのが苦手な湊だったが、遼平の笑顔を見るとむげにできず、されるがままになってしまう。湊と静弥がケンカをしたときも、遼平があいだに入って肩を組み、「おまえらがケンカしてると悲しい」と涙目で訴えられ、怒るに怒れなくなってしまったことが何度かあった。そのときと似たような感覚を覚えて、湊は嫌な予感がした。
「まだ家に帰るには早いだろ? 弓道部の説明会、一緒に行こう」と遼平は言った。
すかさず湊も答える。
「やだ。行かない」
「いいだろ、説明くらい聞いても。トミー先生は腰痛で実技ができないから、静弥が見本を見せるらしいよ」
「遼平、おまえ静弥に買収されたんじゃないのか?」
「買収なんかされてないよ。でも、湊にはこう伝えてって頼まれた。『今日来なかったら、二度とクマに会わせてあげない』ってさ。あそこの家、とうとうクマを飼いだしたのか、すげえな」
いやいや、そこは感心するところじゃないだろうと、湊は心の中でツッコんだ。
「俺にとって静弥は賢者で、湊は勇者なんだよなあ。湊には武勇伝もあるだろ? ほら、幼稚園の遠足のときのこと、覚えてない?」
「遠足? ああ、スズメバチが腕にとまってたのに、振り払わずにそのまま歩いてたこととか?でも、あれはたいしたことじゃないって。スズメバチが寄ってきても、手で払ったり殺してはいけないと、先生から再三注意されてたから」
「違うよ! おまえ、俺がさわれなかったザリガニを素手で捕まえてただろ。あれ見て、『こいつ、かっけえ!』って思ったんだ」
湊は完全に脱力し、自らの膝に手をついた。
「遼平、おれたちはもう、幼稚園児や小学生じゃないんだ」
「高校生になったからって、何が違うのさ」
遼平の無垢なまなざしが湊を射貫く。
湊は一人っ子だが、いつも自分の後ろについてきたやんちゃな弟が、急に大人びたように錯覚した。
「じつは俺、中二のときに偶然、湊が弓を引いてるところを見たんだ。バシバシ矢が的にあたってるのを見て、すげえ興奮した。俺もこんなふうに引いてみたいって思った。湊たちと一緒に弓道やりたいって――。湊は家の用事が忙しいっていうから、このあいだはあきらめたけど、俺や静弥が協力すればなんとかなるんじゃないかな? せっかくこうして会えたんだぜ。説明だけでも聞いてみようよ。それから結論出せばいいじゃないか」
「遼平、おれは……」
「俺は湊と一緒に弓道がやりたい……ダメなの?」
遼平の頭にしょんぼりと垂れた耳が見えるようだった。湊は昔から、年下のあしらいが下手だった。
「……わかった。とりあえず聞くだけなら」
遼平の顔がぱあっと明るくなった。静弥がからんでいるのが納得できないが、こんな顔をされては断れない。不甲斐ない自分に、湊はがくりとうなだれた。
そのころ静弥は、トミー先生とともに皆より先に弓道場へ向かっていた。
風舞高校弓道場は、校庭の隅にひっそりと建っていた。近的競技用で、射距離は二十八メートル、五人立でつめれば六人が同時に引ける広さが確保されている。使われていなかったわりに手入れが行き届いているのは、トミー先生が春休み中に、シルバー人材を導入して奮闘したおかげだ。静弥は息を吹き返したばかりの「風舞高校弓道部」の表札を手でなぞった。
射場へ入場したら一礼し、上座の前まで進みでて二礼した。弓道場が裸足厳禁なのは、人様の家へ裸足であがるのが失礼なのと同じ理由だ。
弓道場の準備は、まず垜(安土)に水をかけ、的の中心が垜敷より二十七センチの高さに的をつける。的は霞的と呼ばれる、同心円の黒線が描かれた直径三十六センチのものを使用する。
次は弓具の準備だ。矢を矢立箱に置き、弓に弦を張る。弝の高さ――弓の握りと弦の間隔は約十五センチにする。高さを測る専用の道具もあるが、静弥は右手を「いいね」と親指を立てた形にして測っている。さらに「麻ぐすね」で弦をこする。麻弦で編んだ小さなわらじの中に、くすねという松脂と油を煮たものが入っていて、摩擦で溶けることで弦のけばだちが整えられる。「手ぐすねを引く」ということわざはまさに弓由来だが、くすねの用途は異なる。
ここまでできてから着替えに入った。弦を張ってすぐ行射すると弓の故障の原因になるため、早めになじませておく必要があった。
巻藁に向かう静弥を見て、トミー先生は言った。
「あれ、竹早くん、眼鏡は?」
「ドライアイなので眼鏡派なんですが、弓を引くときだけはコンタクトにしているんです。以前、弦に引っかけて眼鏡を飛ばしてしまったことがあって」
「レンズ割れちゃってショックなんじゃよなあ。でも、普段眼鏡をかけてる者が眼鏡をはずしたときって、なんとも無防備でいいと思わんかね?」
「今の僕はばっちり見えてますからね。無防備どころか完全攻撃態勢ですよ」
「こりゃ、おっかない」
「トミー先生、僕を弓道部に誘ってくださってありがとうございます。ミッション、必ず成功させましょうね」
「頼りにしとるよ」
ふおっほっほ、とトミー先生は笑った。
静弥にとって、トミー先生はうれしい誤算だった。風舞高校弓道部が廃部寸前であることは受験前から調べ済みだった。おそらく湊も知っていただろう。だから、自分の手で弓道部を復活させるつもりでいたのだ。
追い風は吹いている。
もう一度、あの場所に立つための――。
見えない力が背中を押してくれていると、静弥は自らを鼓舞した。
この日、弓道入門教室と銘打った説明会が開かれることになっており、徐々に人が集まりはじめていた。男女合わせて二、三十人はいるだろうか。男子のお目当ては部活紹介だけではなかった。
「弓道女子ってレベル高いと思わね?」
「それな」
だが、人目を惹く一人の男子の登場によって、男子の野望はあっけなく潰えた。
「遅くなりましたあ。準備ありがとうございまっす」
女子から「七緒くーん」という声がかかると、ピースにした手をひと振りした。「メッハー」「メッハー」と、意味不明なあいさつをかわしている。
少し癖っ毛の明るい髪と、全身からキラキラ光線が発射されているような少年だった。手にした矢筒には「豚に真珠」ならぬ「カエルに真珠」のアクセサリーがぶらさがっている。
静弥は弓を置くと、七緒を手招きした。
「如月七緒くんだよね? 僕は今日一緒に組む竹早静弥、よろしく。その矢筒についてるカエル、おもしろいね」
「ああ、これ、いいっしょ? カエルグッズを集めてるって言ったら、女の子たちがプレゼントしてくれちゃってさあ。今、部屋じゅうカエルだらけ。あっ、オレのことは七緒って呼び捨てでいいから」
「わかった、僕も静弥って呼んでくれ。ところで、さっき『メッハー』って言ってたけど、あれは何?」
「『メルハバ』の略だよ。トルコ語でこんにちは」
なぜトルコ語なんだと思いつつ、静弥はスルーすることにした。こういうところも女子人気が高い理由なんだろう。弓道をやっている男子ではあまり見ないタイプだ。
弓と矢筒を預かっていると、もう一人、弓道場に似つかわしくない者が現れた。
日焼けした健康的な肌を持つ少年だった。眼光が鋭いためか、さわやかスポーツ少年というよりは野性的で、どこか近寄りがたい雰囲気を漂わせている。七緒を取り囲んでいた女子も、さっと遠巻きになった。
「七緒、入り口で止まってんじゃねえよ。早く中へ入れ」
「えー、かっちゃんはせっかちさんだなあ」
「かっちゃんはやめろ」
「かっちゃんはかっちゃんだろ? 今さら他の呼び方できないよ」
「おまえと同じ高校で、さらに同じ部活なんて最悪」
「サッカー部行けば? 入学式の日もサッカー部の人たちに『君、中学のときはどこのポジションだった?』とか、聞かれてたっしょ?」
「サッカー部じゃねえ、俺は弓一筋なんだよ。おまえみたいに、袴をはくために弓道はじめたやつとは違うんだ」
「オレの袴姿イケてるよ。もちろん、見かけ倒しじゃないっす。今日は女の子たちに、オレのほれぼれする姿見せてあげないとね。だから、かっちゃんもしっかりやってよね」
「おまえにだけは言われたくねえな」
呆気にとられている静弥に気づいたのか、七緒はあらためて紹介した。
「こっちは小野木海斗。オレのいとこね」
「小野木くん、竹早です。よろしく」
「……おまえ、どこかの試合で見たことあるな。どこの中学だ?」
「そう? 私立だからこの辺じゃないし、名前をあげても知らないと思うよ。それより、そろそろはじめたいから、二人とも先に着替えてきて。弓は僕が張っておくよ」
海斗は何か言いたげだったが、静弥に道具を託すと控え室へ向かった。
第一回・弓道入門教室がはじまった。
静弥は集まった人の中に湊と遼平の姿を見つけて、「遼平、グッジョブ」とつぶやいた。
トミー先生はコホンと咳払いした。
「みんな、足は崩しておくれ。よく集まってくれたのお。わしは人気者じゃ。照れるのお」
「ベタな前置きはいいから、早く話を進めてください」という声に笑いが起きる。
「では、まずお願いじゃ。弓道は武道じゃ。あいさつをしっかりな。そして、ここが肝心なんじゃが、弓に矢を番えたら、冗談でも絶対に人に向けてはいけない。離すつもりがなくても矢が飛びだしたら、大事故につながるからね。矢を番えないで弓を引く『空打ち』も、弦が切れて危ないので絶対にしないように。これは必ず守ってね」
続いて、脇正面の右側に掲げられた「礼記―射義―」と「射法訓」を唱和した。前者は「射は進退周還必ず礼に中り、内志正しく、外体直くして、然る後に弓矢を持ること審固なり」ではじまる、おもに弓道の理念を説いた銘文だ。後者は「射法は、弓を射ずして骨を射ること最も肝要なり」ではじまる、吉見順正による、おもに術技の遺訓だ。
トミー先生は前列にいる生徒に質問した。
「君、意味はわかるかな?」
「いえ、全然」
「わしもはじめは何が書いてあるかさっぱりじゃったよ。でも稽古を続けていれば『ああ、このことを言ってるんだな』ってことがわかってくる。君も楽しみにしておいてね」
「はい」
「そしてこれは呼吸法にもなるんじゃよ。音読は息を吐き続けることになるので、副交感神経を高めて緊張をやわらげる働きがあるんじゃ。弓引きに必要なのは平常心。弓道のエッセンスを学びながら呼吸法もできて一石二鳥じゃろ?」
『なるほどー』
誰かの声が重なった。
遼平と七緒だ。いつのまにか遼平の隣に七緒が座っていて、顔を見合わせてクスクス笑っている。二人をはさんで両端にいる湊と海斗は仏頂面だった。
トミー先生は弓具を掲げた。
「弓道に必要な道具はおもに三つ。弓と矢、そして、『弽』じゃ。これは鹿皮でできた、手を保護するグローブで、学生のほとんどは三本指の三つ弽を使っとるよ。まずは実際の射技を見てもらおうかの。試合は三人立、または五人立で行われる。今日は三人立じゃ」
静弥と海斗、七緒の三人が腰をあげたときだった。ちょっとすみませんと言って訪れた者は、校内放送で七緒に呼び出しがかかっていると告げた。
「マジっすか? オレ、何かやったっけかなあ。トミー先生すみません、ちょっと行ってきます。なんだったら、代わりに別の人にやってもらっちゃってください」
「えー、七緒くんが引かないなら帰ろうかな」などという女子の声に、トミー先生はあたりを見まわした。
「そうじゃ、もう一人経験者がいたのお。しかもイケメンじゃよ。鳴宮くん、袴に着替えんでいいんで、ちょっと引いてみてくれんかの」
湊は間を置いて、「ええっ!?」と大きな声をあげた。
「無理です。おれはもう半年以上、弓を握ってないんです」
「やり方を見てもらうだけじゃから。道具も借り物になるし、あたらないのは当然とみんなもわかっとる。みんなも彼の射、見てみたいよのお?」
一同がいっせいに拍手をしたため、湊は断りづらい状況に追い込まれた。
湊の準備を待つあいだ、他の人は弓具にさわってみようということになり、トミー先生たちは壁際へと移動した。
海斗は矢を手にすると、湊に近づいた。
「ボタンに弦を引っかけるとまずいから、胸当てするか体操着に着替えろ。弓は何キロ使ってた? 矢束測るから左腕を水平に伸ばして」
「ちょっ、ちょっと待てって。おれは引くなんて一言も言ってない。そうだ、遼平も中学の授業で引いたことがあるって」
「授業で引いたくらいじゃ、まだ危なっかしいだろうが。あたらなくて当然とトミー先生も言ってんだし、誰もおまえの腕前なんか気にしちゃいねえ」
「そうじゃない、そうじゃないんだ……」
「なんだよ、うっせえな。頼まれごとの一つや二つ引き受けろよ。弓引きの端くれとして恥ずかしくねえのかよ?」
弓引きという言葉に、湊は言葉を失った。
海斗はそれを了承ととらえ、湊ののど元を起点に矢の長さを確認した。短いと、引いたときに弓の内側に矢を引き込んでしまい、暴発させてしまう危険性があるからだ。
静弥は湊のそばに立った。
「まずは巻藁で試射してみようよ。それで無理そうだったら断ろう。弽は部の備品があるけど、どうする?」
「……それはいい」
「わかった。体操着は教室まで取りに行ってると時間のロスだから、僕のを貸すよ」
湊はTシャツとジャージに着替えると、鞄からトンボ柄の巾着を取りだした。中から出てきたのは、使い込まれた弽だった。先日、静弥が言っていた、湊が持ち歩いている大切なものとは、このことだった。
弓を射るとき、矢の端をつまんで引いていると思っている人がいるが、じつは、親指を弦に引っかけて引いている。湊が使用している堅帽子三つ弽には、親指根元に弦枕と呼ばれる弦を引っかける溝が施されており、弽によって位置や形状が微妙に異なるため、慣れたものでないと使いにくい。「掛け替えのない」とは弓道由来の言葉で、「掛け」とは弽のことだ。
湊は下弽と弽をつけると、滑り止め用のぎり粉を中指につけて、ギュッと鳴らした。
巻藁の前に立つと、心臓は早鐘を打っていた。筋トレやゴム弓は欠かさず行っていたものの、実際に弓を握るのは久しぶりだった。所作を正しく覚えているのだろうかと不安が募る。だが、体は無意識に動き、気づけば矢番えまで終えていた。
行射に入った。慎重に弓を引き絞っていく。弓を一番張った状態「会」までいくと、湊は数をかぞえた。
一、二、三、四、五――。
矢は湊の手を離れ、巻藁の真ん中にあたった。
弓を倒すと、トミー先生は湊に声をかけた。
「おお、きれいな射型をしとるじゃないか。それなら大丈夫じゃ」
湊は口を固く結び、巻藁に刺さった矢を抜いた。肩で呼吸すると、少し離れたところから見守っていた静弥も、同じように大きく息を吐いた。
準備が整うと、静弥、湊、海斗の順に入場口に並んだ。入場の開始だ。
礼をすると擦り足で前進し、各々の的へと向きを変え、ここでいったん坐って浅い礼をした。このとき並んだ位置を本座という。立ちあがると、矢を射る位置まで進んで再び坐す。この位置を射位、このように坐してから行射に入る方法を「坐射」、そして終始立ったまま行う方法を「立射」という。
三人がそろって矢を番えているあいだに、トミー先生が解説をはじめた。
「見てのとおり、矢を二本持っておるじゃろ? この二本を『一手』といって、甲矢、乙矢の順で射っていく。まずは竹早くんからだ。一番前のことを『大前』という」
言われて、静弥は矢番えした弓を捧げ持って立ちあがった。足を踏み開くと、弓を左膝に置き、右手を腰のあたりに取る。それを合図に二番の湊も立ちあがり、静弥の動作を追った。
静弥は右手で弦を取り、左手で弓を握ると、再び顔を的へと向けた。体の正面で両腕をあげると、矢先をゆっくりと的中心へ寄せていく。弓を張りつめた瞬間は、まさに弓道の見せ場だ。人と弓とが作りだす十文字の形は、当人はもちろんのこと、見る者にも心地よい緊張を与える。
一、二、三、四、五――。
的中だ。おおっという声があがった。
静弥の弦音を合図に、湊も弓を打起した。湊の矢先も的中心にゆっくりと近づいていく――と、誰もが思っていた。
ところが、矢は的の中心に向かうことなく早々に湊の手から離れ、的の前へと大きくはずしていた。的の前とは右側のことで、後ろとは左側のことだ。度肝を抜くがごとく速さで矢が放たれたため、場内は一瞬ざわっとなった。「何、あれ?」といった表情で、顔を見合わせている者もいる。
トミー先生はおどけて言った。
「美人が多くて緊張したかのお。あたってもはずしてもポーカーフェイスが基本じゃよ。喜怒哀楽を表に出さないのが他者に対する礼儀なんじゃ。アーチェリーなどと違って的中制で、あたりとはずれの二択しかない。さて、一番後ろは『落』ね」
海斗は湊の弦音を合図に弓を打起すはずだったのだが、言われて動作に入った。弓を引き絞り、離れの瞬間を待ったが、矢は的をはずした。
二射目、静弥の放った矢は的の後ろへと抜けた。静弥は手持ちの矢二本を射終え、退場をはじめたが、湊は動けなかった。暴れる胸の鼓動と、首筋の脈打つ音が耳をつんざく。恐る恐る弓を打起したが、芝生の向こうから的が迫ってくるように見え、呼吸ができない。
離すな、離しちゃだめだ――。
湊は心中で何度も唱えた。矢の長さの半分ほどを引き、そこから大きく引分けようとしたが、またも途中で矢は飛びだし、的のはるか上、垜を覆う幕を打ち抜いていた。
最後、海斗が的中を決めると、一、〇、一の計六射二中で終了した。
「弓道は見た目以上に的中するのが難しくての。だからこそ、あたったときの喜びもひとしおじゃよ。一緒に学んでいこうと思っとるから、興味を持った人はぜひ明日もここに集まっておくれ」
トミー先生の言葉で解散となると、海斗は湊が着替え終えるのを待って詰め寄った。
「おい、鳴宮。なんだ、さっきの射は……。『幕打ち』は仕方ねえとしても、なんであんなに早いんだよ? おまえがすぐ離しちまうから、後ろの俺は弓構えすら間に合わねえじゃねえか」
「だから、はじめから無理だって言っただろ? おれだって早く離すつもりはないんだ」
「はあ? 下手な言い訳してんじゃねえ。巻藁では普通に引いてただろうが。的前に立ったとたん、あんな雑な射をしやがって。弓引きとして恥ずかしくねえのか」
「……ああ、そうだよ。おれはもう弓引きじゃない……。どいてくれ、帰るから」
湊は海斗を振り払うと、足早に玄関へ向かった。静弥は急いであとを追った。
「湊、明日も来るだろう? ……待ってるから」
「待たなくていいっ、おれはもう弓道はやらない!」
走り去る湊の背を見つめる静弥のかたわらで、トミー先生はつぶやいた。
「竹早くん、彼はもしかして」
「――早気です」
湊は自転車にまたがると、脇目も振らず駆けた。
雨が降りはじめた。濡れてすべるグリップを握りしめて、自転車を押しながら急な坂道を登った。てかてかと光るアスファルトの上をテールランプの赤い残像が尾を引き、車のタイヤが水を弾く音が追い越していく。鳥居が見えると、自転車を停めて夜多の森へ入った。
夜多の森弓道場、屋外観覧席の竹柵の先にあの男はいた。男に見つからないよう、その場にしゃがんで見物した。雨で湿度が高いためか、以前聞いたような透きとおる弦音ではなかったが、伸びやかな肢体から繰りだされる射はやはりきれいだった。どこにも偏りのない、ある種解放された動き。それでいて、どこか厳かな感じもする。
まるで、願掛けでもしているようだ。
星も月も見えない夜に、おれなら何に願うだろう。
はたと、男と目が合った。向こうのほうが高いところにいるのだから、見つかってあたりまえか。
男は弽をつけた右手をチョキにして、ひょいひょいと手招きした。湊は拒絶したわけではなく、ただ頭が働かずにぼんやりとその仕草を眺めていた。すると、男は手にしていた弓を足元に置き、射場の縁まできてしゃがみ込んだ。両手で「おいで、おいで」と誘う。
これはまるで――。
「おれは犬猫じゃありません」
「だったら、さっさと来いって。暗闇にずぶ濡れの少年がいるなんて、こっちから見ると幽霊みたいでめっちゃ怖いんだって」
「射場を汚したくないし」
「あとで拭いときゃ平気だって。おまえが拭いてくれるんだろう?」
あの夜と同じようにニッと笑った。湊はずぶ濡れのまま射場へあがった。男は床に寝かした弓を拾うとその場から離れ、風呂敷包みを手に戻った。
「脱いで乾かしな、初心者用の道着一式を貸してやるから。男子更衣室は受付のまん前な。あと、俺に丁寧語は使わなくていいぞ」
着替えて戻ると、男は射場の隅に座っていた。湊が濡らしてしまったところもきれいに拭きとられている。「ほれ」と言って手渡されたのは、今度は炎がデザインされた缶コーヒーだった。
湊は缶を両手で包んだ。
「……あったかい」
「夜は冷えるからな。おっと、いいものがあった。おまえも食う?」
何が出てくるのかと思ったらおやきだった。しかもあんこ入り。湊はコーヒーと一緒に甘いおやきを口に放り込んだ。
飲み終えると男は、弦の中仕掛けの調整をした。矢の筈の溝は弦の太さより若干大きい。矢を番えやすくするため、弦にボンドを塗ってほぐした麻を巻きつけて、ほどよい太さに整える。
湊は夜空を見てつぶやいた。
「今日は雨だからフウは無理か」
「そうだな、今度晴れてる日に呼んでやるよ。おまえの肩はフウのとまり木に最適だからな」
「おれは置物じゃないって。ところで、ここって何時までやってるんだ?」
「一応夜九時までってことになってるけど、最近は昼間しか使ってないみたいだな。使用するときは郵便受けから鍵を出して入り、受付に料金を置いておくんだ。一時間五十円な。夜間、誰もいないっていうんで、カップルが忍び込んだこともあったらしい」
「神聖な道場でなんという……」
「おまえ、そっち方面は縁遠そうだな。俺が手ほどきしてやろうか?」
「このエロおやじめ」
男はニヤけたまま、道宝と呼ばれる、小さな拍子木のようなもので中仕掛けを固く締めた。稽古を再開するかと思いきや、予想外の言葉を口にした。
「おまえ、その感じだと弓道経験者だろう? ちょっと引いてみるか?」
「えっ、いいよ」
「遠慮なんかすんなって。弓が引きたくてここに来たんじゃないのか」
「いいって言ってるだろ!」
湊は自分の出した声で我に返った。
「……悪い、おれ帰るよ」
「帰る前に、ここでいろいろぶちまけていっていいぞ。この弓道場は電話線すら通っていない、ある意味、現実世界から隔離された場所だ。俺はおまえのリアルに存在しない者。今からおまえが口にすることは、俺以外に決して伝わることはない」
男は湊の返答を待った。
長い時間が過ぎ、湊はあえぐように言葉を絞りだした。
「なんであなたは、そんなきれいな射ができるんだ? ……おれ、中学最後の試合で『早気』になってしまって、それから…………弓を引くのが怖いんだ……」
早気とは、矢を離すと決断していないのに離れてしまう状態をいう。会に至らずに、引分けている最中に離れてしまうのだ。弓道における深刻な病といわれ、ゴルフのイップス病によく似ている。
「試合で敗退したあと、練習を再開したんだ。巻藁の前ではなんとか持てるのに、的前に立つと一秒と持たない。自分の体なのに全然いうことをきいてくれないんだ。離すまいと思えば思うほど、矢はおれの手をすり抜けていってしまう。そのうち弓を引くことすら怖くなって……。このままじゃ、みんなに迷惑がかかるって」
入部してすぐのころ、とてもよくあたる先輩がいた。主将も務めているような人だった。だが早気になり、県大会目前で部を辞めてしまった。そのときは不思議でならなかった。なぜすぐ離してしまうのだろうと。自分の意思に反して離してしまうなんてことがあるのか。きっと、精神が弱い人なんだろうと。
自分がその立場になってやっとわかった。先生に「なんで離してしまうんだ」と怒られても、仲間から「早すぎて間に合わない」と責められても、自分ではどうしようもできない。まさに病だ。いつしか、誰も何も言わなくなった。見限られたとわかった。
「そして、そのまま引退。今日、半年ぶりに弓を握ったんだ。もしかしたら直っているかもしれないって期待したけど、やっぱりだめだった……。カッコ悪いだろ? 才能のない人間なんてこんなもんさ」
「そうか、つらかったな」
湊は驚いて顔をあげた。
今、この人はなんて言った?
つらい? おれはつらかったのか?
思わず目元を押さえた。湧きあがってくるものをこらえるのが精一杯だった。
早気を発症したときの恐怖は濁流で溺れるに等しいが、誰もが共感できるものではないのだ。
「……あなたの名前を聞いてもいい? おれは湊、鳴宮湊」
「滝川雅貴。だいたいマサさんって呼ばれてるから、湊もそう呼んでいい」
「マサさん、おれ、どうしたらいいのかわからないんだ……。もうおれは弓道をやりたくない。無様な自分を再確認するようなことは嫌なんだ。だから、父さんから家計が厳しいから公立高校を受験してくれって言われたとき、救われたって思った。これで今、通ってる私立校に持ちあがらなくて済む、弓道をやめる大義名分ができたって。なのに、走り込みや筋トレがやめられない。弓がおれを呼び戻そうとするんだ……」
――弦音が呼んでいるんだ。
果たせなかったいくつもの約束が足枷となる。あれだけ愛しんでおきながら、おまえはすべてを捨てて逃げるのかと。遼平が語った湊の武勇伝は過去のもので、今では戦い敗れて故郷に逃げ帰った落ち武者同然だった。
「それでもおまえは弓を引きたい。違うのか?」
「……うん。でも、どうしたら早気が直せるのか……」
「おまえの目の前には、早気を克服したやつがいるんだが」
マサさんはニッと笑った。