ツルネ ―風舞高校弓道部― 2
序章 矢声
塾帰り、友だちと話してくるから遅くなると母に告げて立ち寄ったのは、市営の体育館だった。湊は受付で子ども料金を払うと、脇目も振らず歩きだした。こんなところにこんなものがあったのかと思うほどにひっそりと、そこへ行くという目的を持っていなければたどり着けないような場所にある施設、それは弓道場だった。
聞こえてきたのは美しい弦音だ。矢を発したときに鳴る弦の音。
上級の射手の奏でる弦音は単音で、濁らず、混ざらず、清らかな音を響かせる。手にした弓は背の高さを優に超える竹製で、飴色の光沢が弓と人とのつきあいの長さを物語っている。
老いた射手にあいさつをし、ひと通りの準備を済ませると的前に立った。的の先、視界遠くでは、夕映えの空に丸い月が浮かぶ。
湊の後ろには、もう一人の少年がいた。彫りの深い顔立ちと、色素の薄いまつ毛が愁いを帯びる。純然たる和テイストな湊とは対照的なその姿に、人々は見果てぬ夢を追い求める異邦人を重ねる。
鳴宮湊と藤原愁は小学五年生、西園寺知良の唯一の愛弟子だ。下稽古を積み、二人が的に向かって矢を放てるようになったのは、つい最近のことだ。
湊は手にした弓矢をゆっくりと上へあげた。弓を引き絞り、矢先を的中心へと近づけていく。だが、満を持して放たれた矢は垜にすら届かず、的手前で鈍い音をたてた。続けて放たれた愁の矢も、的の下へと抜けた。彼らはまだ小学生なので、標準より短く、とても力の弱い弓を使用していた。弱弓は矢飛びが悪く、腕のいい射手でも扱いが難しい。
弓道は喜怒哀楽の感情を表に出してはいけないと教わるのだが、幼い彼らでは隠しとおすことはできず、口をへの字にしていた。それを見た西園寺は頬をゆるませた。
「二人とも縮こまっていますね。今日は矢声を出してみましょう。最近は的前で声を発すると叱られたりしますが、昔はよくそうやって稽古したものです」
湊は首をかしげた。
「ヤゴエってなんですか?」
「矢を発したとき、射手があげる気合いの声のことです。卓球やテニスの選手がここぞというときに、雄叫びをあげながらスマッシュを決めたりするでしょう? あれと同じです」
「おれ、動画でなら見たことある。巻藁に向かって叫んでました」
「巻藁射礼でしょう。最近は大学生などが、的中したときにかける声援のことを矢声と呼んでいるそうですね。言葉は時代や場所によって変化する。じつにおもしろい」
そう言うと、西園寺は自身の弓矢を手に的前へ入った。
少年たちとまったく同じ手順で弓を引いているのに、それは明らかに別物だった。真夏の夜、打ちあげ花火の速度で捧げられた弓は、大きく、気高く、花びらを広げていく。老いてなお枯れることない魂はどこから来るのだろうか。日々の鍛錬から生まれた肉体と智慧のコラボレーション。ほとばしる情熱は尽きることを知らない。
解き放たれた声は、地を這い足元にまとわりつき、湊たちを連れ去った。
「さあ、やってみましょう」
湊と愁は矢を放ち、声を振り絞った。
ヤァ――ッ。
おれよりいい声を出してみろ。
おれを射貫け。
矢声と弦音が絶妙なハーモニーを奏でたとき、トンと的音が響いた。
稽古を終えてからも、二人の興奮は冷めやらなかった。全身の血がふつふつと煮えたぎり、どうやって静めたらいいのかわからない。
湊は愁の腕を小刻みに叩いた。
「西園寺先生ってほんとすごいな! 普段は物静かな感じなのに、どこからあんな声が出るんだろう」
「そりゃ、俺の父が探してきた名射手だから」
「おれ、いろんな弓道場へ行ったんだけど、小学生は指導できる人がいないって断られてさ。中学生になるまで待つしかないとあきらめてたから、すっごくうれしい。ああ、早く上手くなりたい。上手くなって母さんにおれの射を見てもらうんだ。もちろん、そのときの相手は愁だからな」
「受けてたつよ。ただし、先に抜くのは湊だから」
「なんだよ、おれだって詰めるから」
「抜く」ははずれで、「詰める」はあたりのことだ。
愁はバス停へ向かった。
自転車にまたがった湊の背中を見送ると、夜空を見上げた。いつもこの瞬間がひどくもどかしかった。夏休みを祖父母の家で過ごした帰り道によく似ている。
この日は隣町で花火大会が催されており、バスのダイヤが乱れていた。
ふと人の気配に気づき目をやると、そこには白パーカーを着た少年がいた。親しげな笑みを浮かべている。
「バス、まだ来ないみたいだね。お友だちは自転車? 遠くから来ているの?」
「さあ、詳しくは知らない」
「そうなんだ」
少年は白パーカーのフードをかぶった。
「西園寺先生が小学生に指導しているという噂は本当だったんだね。個人レッスンって聞いてたんだけど」
「……どこでその話を」
「内緒にしたいなら、こんなところで引いてちゃダメだよ。いいな、俺も西園寺先生に習ってみたかったなあ。俺はキミより一つ上だし、資格があると思うんだ」
ドン、ドン。
姿の見えない花火の音がした。
白パーカーの少年の言葉を信用するならば、目の前にいる人物は小学六年生ということになる。愛想がよく、黒々とした大きな瞳の少年。だが、何か引っかかる。
かかわらないほうがいい――。そう判断した愁がその場を離れようとすると、白パーカーの少年が愁の行く手を遮った。
「キミは運転手がつけられるご身分なのに、わざわざ公共のバスを使ってるんだね。庶民生活を体験させようっていう教育方針なのかな」
「おまえは誰だ?」
「キミのお父さんは一人増えてるってことを知っているのかな? まあ、小学生を二人も弟子にするなんて、西園寺先生の気まぐれなんだろうけど。愁くんは親切なんだねえ。西園寺先生を独り占めできる機会をみすみす手放すなんてさ」
その言葉に、愁はふっと微笑んだ。
「俺が親切? 俺は自分の手でライバルを育てているんだ」
俺のはじめての弓友だ。
たった一人の。
俺から湊を奪うやつは、誰であろうと許さない――。
「クク……。おもしれえ……」
白パーカーの少年は愁の肩先をかすめ、バスの進行方向とは反対へと立ち去った。
花火の音はまだ響いていた。
第一章 同行二人
1
レンガ造りの校舎に、まだ青い蔦の葉がからむ。創始からヨーロッパのギムナジウムを模し、文武両道とならんで創造・発信できるリーダーの育成を教育理念として掲げている。
桐先高校弓道部は、休日にもかかわらず朝から練習に励んでいた。だが、なじみの顔ぶれは一掃され、的前を占めるのは一、二年生だ。県大会を終えるとほとんどの三年生は部を引退する。県大会後も練習に参加しているのは、選手と一部のもの好きだけだった。
顧問は、若干広く感じる弓道場を見まわした。
「藤原、おまえ最近、巻藁ばかりやっているな。一年だからって遠慮することはないぞ」
「はい、これが終わりましたら」
「県大会では団体優勝を逃したが、地方大会は高校総体とは別枠なので三位までが出場できる。まあ、おまえがはずしたときは、俺も思わず声が出てしまったがな。藤原も人間だったんだな」
「申し訳ありません」
「まあ、いい。公式試合連続皆中の記録は途切れてしまったが、地方大会はもちろん、おまえには個人戦全国制覇がかかっている」
顧問が去ると、補欠落ちした二年の椛島はここぞとばかりに愁へ近づいた。
「藤原は個人戦では皆中しといて、団体戦ではずすなんてさ。中学のときといい、もしかして団体戦にツキがないんじゃないの? もしくは、わざとはずしたとか」
「椛島先輩にはそう見えるなら、そう見ていただいてかまいません」
「ふん。なんだ、おまえ」
立ち去る椛島に、愁は苦笑いを浮かべた。
この俺が、顧問や先輩に嫌みを言われる日がこようとは――。
双子の弟・万次も、的前には入らず巻藁と向きあっていた。万次の早気は一過性のものだったようで、翌日の練習からは早気になっていない。
早気とは、自分の意思に反して矢を離してしまうことで、早気が克服できず弓道をやめてしまう人も多い。最近ではイップスと呼ばれる運動障害の一種と考えられている。
やる気や体力が問題の、ただ会が短いだけの「早気もどき」と、早気になりかけている、または直りかけの「早気ぎみ」は、『真性の早気』と見分けがつかず、周囲の理解も得にくいことが、治療をますます困難なものにしている。
自分の体が思いどおりに動かなくなり、まるで操り人形のように矢を放ってしまうという体験は、恐怖以外の何物でもない。的に向かうと体がすくみ、矢を放すタイミングが毎回違ってしまう。そのため万次は、地方大会の先発組からはずされてしまった。
県大会で桐先高校の敗北が確定した直後、万次は崩れ落ちた。
すみません……、すみません……。
俺のせいで、俺のせいで……。
繰り返し、繰り返し、詫びの言葉を口にする万次。零れ落ちたもので床が濡れていく。万次を隠すように抱きしめる千一。「いい、もういいですよ」と言いながら、千一と万次の背に手を添える本村。そのそばで佐瀬は、袴の両脇を握りしめたまま立ち尽くしている。
愁はこの光景をどこかで見たことがあった。中学での県大会だ。湊、静弥、愁の三人で参加した最後の試合。
ごめん、ごめん……っ。
顔を拳で覆う湊。あのときは負けた悔しさより、湊が早気になったことの衝撃のほうが大きかった。早気、それは弓引きにとって命取りにもなる病だ。まさか、おまえがそんな難病にかかるなんて。
じりじりと体が火照り、容赦ない渇きに襲われる。声が出なかった。おまえにどんな言葉をかければいいのかわからない。
今回も、愁に言葉はなかった。
激しい怒りで気が狂いそうだった。誰か俺を殴ってくれ、罵ってくれ。泣き叫びたいのに叫べない。こんな惨めな状態になっても醜態をさらすわけにはいかないと、かすかに残ったプライドにしがみつく。
なぜはずした?
なぜ俺はあそこではずしたのだ?
万次が早気になったことに気を取られたのだろうか。いや、違う。湊が早気になった試合のときも引きずられることはなかった。
県大会決勝最後の射、絶対にはずさないと思った。待ち焦がれた相手が後ろにいる。
そう俺は、弓から心を離してしまったのだ――。
昼食休憩となり、部員たちは中庭へと足を運んだ。桜はとうに終わっていたが、代わりにバラの香りが辺りを包んでいる。
愁と千一、万次は、中庭奥の、いつもの場所で腰かけた。貴公子然とした愁の両脇を、同じ顔の少年が占めている光景はどこか妖しげで、他の者は近づくのをためらう。だがこの日は、三年の本村と佐瀬が同席していた。
「本村先輩、国体出場決まったそうですね。おめでとうございます」
「ありがとう」
部長の本村は微笑むと、コップに注いだお茶をゆっくりと口に含んだ。その隣では副部長の佐瀬が、毎朝ヘアワックスを手に鏡に向かっているであろう前髪を指で梳いた。
「おまえら、練習終わったあと時間ある? ちょっと俺らの部屋に寄ってかない?」
佐瀬の提案に、千一と万次は身を乗りだした。
「いいんですか! 最上階の角部屋ですよね。他の部屋より広いって聞いたけど」
「広いだけじゃないんだな、これが」
「バストイレ完備とか?」
「それは来てのお楽しみ。な? 本村」
「そうですね。楽しいかどうかは、僕は保証しませんが。むしろ後悔するかも」
「なになに? 壁に死体が隠してあるとか?」
「ひえ――っ!」
はしゃぐ双子の隣で、愁は手にしていたスマホをしまった。普段は練習途中でスマホなど見ないのだが、その日は偶然にも手にしていた。
「佐瀬先輩、本村先輩。申し訳ありません。急用が入りましたので、今日はこれであがります。お誘いはまたの機会に」
「えっ!? 愁、帰るのか?」
愁が部活を早退するなど前代未聞の出来事だった。千一と万次は動揺を隠せず、両脇から愁の腕をつかんだ。
「ああ、すまない」
「いや、うん大丈夫。急ぐんだろ? 顧問には俺たちから伝えとくから」
「ありがとう、千、万」
二人が手を離すと、愁は食事も中途に立ち去った。
「なあ、万次。愁の急用ってなんだと思う? 愁の家族のこととか聞いたことある?」
「んー、ない。そういえば県大会のとき、愁のとこだけ親が応援に来てなかったよな。緊張するから来ないように言ってあるって」
「あの愁が、親が見てるくらいで緊張する!? 絶対ありえないね! 俺さっき、愁に急用って何って聞けなかった。聞いちゃいけないような気がした。俺たちってじつは愁のこと、全然知らないよな……」
本村は言った。
「僕らは中等部から藤原くんを知っていますが、部活で一緒に過ごした期間は半年足らずでしたし、まして菅原くんたちは入学してから数か月しか経っていないんですから知らなくて当然です。佐瀬とは中一からの腐れ縁ですが、初見ではアイドルオタクだなんて夢にも思いませんでした。だまされました」
「俺は隠しても、だましてもいないって。自分の気持ちに素直なだけだ。のりりんと同時代に生まれてこれた俺は最強!」
「これです、これ。菅原くんたちも佐瀬を見習ったほうがいい」
本村は佐瀬を指さした。
愁は電車とタクシーを乗り継ぎ、目的地へと駆けつけた。
どこからか、季節はずれのセミの声が聞こえる。四方を山に囲まれた緑多い土地で、新旧入り混じった家屋が点在している。庭にクスノキの木が植えられた、僧侶の住む庫裡に似た住居前に降りたった。
その人は、変わらぬ声で言った。
「愁!」
「湊、やっぱりここへ来ていたか。連絡しても出ないから、もしかしてと思ったんだ」
「西園寺先生が倒れたって聞いたら、来ないわけないじゃないかっ」
「その連絡は誰から来た?」
「草太」
「草太くんとは話した?」
「ううん、自宅のほうに電話したんだけど、話し中で埒が明かないんで、これは直接行ったほうが早いなと思って」
「俺も草太くんから連絡が来た。確認のため父に尋ねてみたが、そんな話は来ていないそうだ」
「えっ? あっ、まさか」
物音に目をやると、物陰から様子をうかがう幼子の姿があった。
湊は低い声を出した。
「そーうーたー」
「キャーッ、ごめんなさいっ。だってお母さんが見ていたテレビで『きとく』って連絡したら、すっ飛んできたからさ。湊兄ちゃんと愁兄ちゃん、高校生になったらまた遊びに行くよとか言っといて、全然来ないんだもん」
「大昔からあるベタなネタを、ほんとに使う人がいるなんて……。やられたよ」
草太は西園寺の孫で、小学一年生の男の子だ。人懐こいというかちゃっかり者で、湊と愁が客間で腰をおろすと、草太は湊の膝の上にちょこんと座った。黒目がちな瞳はまばたきもせず愁を見つめる。
少し遅れて三人の前に現れた西園寺は、床の間の前に座った。
「うちの孫がとんだ騒動を起こしてしまって申し訳ありません。こら、草太、はしたない。あなたは少し反省しなさい」
「西園寺先生、大丈夫です。おれ一人っ子だから、こういうのちょっとうれしいですし」
「そうですか。いやはや、私も孫には甘い」
そこが定位置とばかりになじんでいる草太に、西園寺は目を細めた。
「鳴宮くんがお父様と一緒にこちらへお見えになったのは、中学に入ってすぐのことでしたね。お懐かしい。お父様はお元気でいらっしゃいますか」
「はい、おかげさまで元気にしています」
「藤原くんのご活躍も私の耳に届いております。背も私を追い越してしまいましたね。教え子二人が私のために駆けつけてくれるなんて、ありがたいことです」
二人が西園寺のもとで弓道を学んだ期間は、小学五年から中一終わりまでのおよそ三年間で、湊は交通事故によるブランクから実質二年と愁より短い。湊は両親に内緒で教わっていたため、事故後かなり経ってから事情を知った湊の父が、菓子折り持参で西園寺宅を訪問したのだ。
愁の脳裏に、息子がお世話になっていたのにそれすら知らず、非礼をお許しくださいと、頭をさげる湊の父の姿がよみがえる。湊の律儀で真面目な性格は、父親ゆずりなのかもしれない。
愁は西園寺の個人指導をはじめてまもなく、早まったと思った。
高齢の名弓引きと、男子小学生の一対一の稽古。厳格な父が弓道を習いたいという愁の言葉を覚えていてくれて、指導者をわざわざ探してくださった。その期待に応えるべく稽古に励んでいたが、的前には立てず、いつ終わるかわからない素引きに嫌気がさしていた。
そこに現れたのが湊だ。
あの瞬間から愁の世界は変わった。湊に負けたくないと、必死で西園寺の稽古にしがみついた。親に内緒にしていることがあるというのも心躍るものがあった。今思えば西園寺も、一対一の稽古では愁の荷が重いと感じて、湊を招き入れたのかもしれない。
大人の会話に飽きたのか、草太は立ちあがった。
「ねえねえ、庭にカエルがいるんだよ? 一緒に捕まえにいこうよ。湊兄ちゃん、カエル獲り上手いだろ?」
「今、先生とお話してるから」
「かまいません、いってらっしゃい。戻ってきたらみんなでお菓子をいただきましょう」
祖父の許可をもらい、草太は湊の手を引いて庭へと向かった。二人の姿が見えなくなると、西園寺は愁と向きあった。
「さて、邪魔者はいなくなりました。二人だけで話したいというお顔をしていらっしゃる」
西園寺はさすが年の功という心遣いができる男だった。気位の高い愁が心情を吐露できるのは、最初の師である西園寺をおいて存在しないのだ。
西園寺は左耳が悪い。愁はよく聞こえるようにと右隣へまわった。
「俺は目指すべき場所がわからなくなってしまったのです……。西園寺先生の弟子として、誰よりも上手くなりたかった。そのためには、はずしてはだめだと思っていました。『正射正中』――善いあたりは善い射から生まれる。悪しき射でもあたりますが、あたらない射は間違いなく善き射ではないのです」
「なるほど」
「県大会決勝戦、最後の射をはずして敗退しました。公式試合連続皆中を逃したことはどうでもよくて、俺は団体戦で勝ちたかった。負けた直後は悔しくて、悔しくて、自分自身に対する怒りしかありませんでした。だが日が経ち、怒りがおさまると、代わりに虚しさに襲われました。どれほど弓を愛し、弓にすべてを捧げても、弓の神は俺には微笑まない」
愁の声が途切れると、簾越しにセミの鳴き声が届いた。
「……これはヒグラシですか? でも今は晩春で、しかも昼間ですし、ヒグラシが鳴くには早すぎますね」
「エゾハルゼミです。その名のとおり春に鳴くセミです。藤原くん、あなたは早熟だ、心も体も。だが生き物の旬と、その旬の長さは、それぞれに違っていいのだと私は思う。私もあなたに問いましょう。なぜ『弓道は立禅』というと思いますか」
「呼吸の仕方や心の持ち方が、禅に似ているところからきたのではないでしょうか」
「では、百射百中した先に何があるのでしょう。もし県大会最後の射ではずさず、皆中していたとしたならば、いったい何が見えたと」
「……わかりません。すみません、今すぐは答えられません」
「現在、多数を占める正面打起しで大三を取る射法は、本多流の祖・本多利實翁が考案したもので、弓聖と謳われる阿波研造範士もこちらの門下生でした。それ以前は斜面打起しが多かった。また私が弓道をはじめたころは、打起しは今よりも高く、小離れで教わりました。弓道は流派や先生の違いだけでなく、時代とともに変化しているのです」
「射法、射型にも流行があると?」
「はい。『一射絶命』という言葉を我々は、『次の矢はない、その一射で絶命するつもりで引け』という意味で使いますが、一射ごとが悟りにも似た境地であり、また『絶命した人のように引け』という風に、射技として解釈することもできるかと」
「絶命した人――死人のように、ですか?」
「私は大切な方の前ではずしてはじめて、一射絶命という言葉の輪郭がわかるようになりました。藤原くんは妻手肘のひねりが強い、やや独特な射です。華やかで矢走り鋭く、多くの者が魅せられる。あなたはまだ誰も歩いていない道を行こうとしているのかもしれません」
「俺はそんなたいそうな人間ではありません……」
「私には目を閉じるとありありと想像できるのです。あなたたちが並んで射をする姿が」
愁は中学最後の試合を思いだしていた。
そこには湊を心配する自分と、湊を嘲笑うもう一人の自分がいた。
早気になった湊を見て、優越感を味わっていたのではないか。俺は早気やもたれなどにならない。弓引きとしては俺のほうが上だと。
浅ましい自分。醜い感情。
湊を前にすると、見たくない己に気づいてしまう。
なぜ桐先を去った。
なぜ俺のもとを去った。
待つつもりだった。早気の克服が困難であることは先輩を見て知っている。高校にあがり環境が変われば直るのではないかと期待していた。その気持ちは決して嘘ではなかった。
おまえがいれば勝てた。
俺はおまえの背中を見ている限り、絶対にはずしたりしないのに――。
子どもがパタパタと走る音が聞こえた。
まばゆい光の中、伸びてくる手は愁の腕をつかんだ。
「まだ話してたの? 愁兄ちゃんも来てよ」
請われて、愁は庭へと降りたった。
草太は湊と愁の真ん中で、ぎゅっと手をつなぐ。その小さな手のぬくもりが、愁にはくすぐったく感じた。かたわらの友人は愁の戸惑いなど気づかぬようで、いたずらっ子ぽい笑顔を浮かべている。
「よしっ、じゃあ次の取り組みは藤原関とだ。愁、相撲するぞ」
クスノキの木の足元には、縄跳びをつないでこしらえた土俵があった。湊は軍配代わりの大きな葉を持つと「はっけよーい、のこった、のこった」と声をあげた。
小学生と高校生だ。草太がいくら押しても愁はびくともせず、ゆるゆると外へ押しだされた。草太は口を尖らせ不服顔だ。
「愁、六歳の子相手に大人げないぞ。草太、おれが加勢してやるから、愁なんてやっつけちゃおうぜ」
「おうっ!」
再び取り組みがはじまった。草太が愁を力いっぱい押し、草太の頭上では湊と愁ががっちりと手を合わせる。
「愁、やられろ――っ」
「やだね」
「わっ! やめっ」
湊は転がされて土をつけた。同時に愁は土俵の外へと自ら出た。
「土俵内にいるのは草太くんだから、草太くんの勝ちだな」
「やったー、ぼくの勝ちー」
勝利宣言する草太の横で、愁は湊が起きあがるのを手助けした。
「愁、おまえ汚いっ。脇腹くすぐるなんて」
「二対一なんだ。ハンデありだろ?」
「おれよりずっと背が高いくせして、なんでそっちにハンデがつくんだよ?」
「県大会で負けて傷心の俺に、気遣いはないのかい?」
「うっ、それを言われると……」
「もう一度、勝負する?」
「もちろん」
その後、三人の笑い声は夕刻まで続いた。
帰りは二人でバスに乗った。
窓側が湊、通路側が愁という座り方は、中学の遠征バスと同じだった。体は覚えているもので、自然とこの並びで腰かけている。
湊は言った。
「万次くん、あのあと早気はどうなんだ?」
「あれから早気は起こしていないんで、今は会を長くとるよう意識して引いているよ。早打ちもなくなった」
「そっか、よかった。何か聞きたいことあったら言ってくれ。当事者でないとわからないこともあると思うから」
「早気の克服には、どういう練習が効果的だった?」
「その件はコーチとも話したんだけど、やっぱり不発射法かなあ。弓を引いても離さないんだ。あと、会の長い人の後ろで一緒に引くのもいいと思う。愁と同じ間合いで引くんだよ」
「なるほど、今度やってみよう。風舞高校にはコーチがいるのか」
「うん、すっごくきれいな射をするんだ。今のおれの目標」
「……そうか」
童心に帰って疲れたのか、愁は目を閉じた。
しばらくして、自分の名を呼ぶ声にはっとなった。窓の外を見ると、バスはすでに駅前まで来ていた。
「もしかして、俺寝てた?」
「もしかしなくても、おれの肩を枕にして気持ちよさそうに寝てたよ」
「そうか。悪い」
バスを降りると、改札口を通過した。
目の前には二つの階段があった。愁がのぼりホームへ、湊はくだりホームへ向かう。左右に分かれた行き先が、互いの進む道の違いを示しているようだ。
あきらめよう。
湊が他校へ行くことを引きとめなかったことを、いくら悔やんでも仕方がない。
つまびらかな記憶。
夏休みにも似た愛しい日々は、とうに終わっているのだ。
「愁!」
名を呼ばれ、愁は踏みだした足を止めた。
「愁、たこ焼き食べていかない?」
「……えっ?」
「ちょっと、いや思いっきり遠まわりになるけど、おれんち寄っていきなよ。おれが焼いてやるから」
「これから? 湊が?」
「うん。前に、家にたこ焼き器があるなんて珍しいって言ってたじゃないか。冷蔵庫にあるタコだけじゃ足りないかな。愁はコーンとチーズ食べたことある? 『それもう、たこ焼きじゃないから』とかいうツッコミはなしね。そうだ、静弥も呼ぼうか。あー、しまった。スマホの充電切れてるんだった」
一見、湊は気まぐれで話しているようだが、愁を気遣っていろいろ考えた結果が「たこ焼き」だったのだろう。
俺のライバルは、感傷的な気分にも浸らせてくれないのか。
この俺を「たこ焼き」で釣ろうとは――。
愁は我慢できなくなり、目頭を押さえた。
「愁? 何笑ってるんだよ。おれ、なんかおかしなこと言った?」
「いや、なんでもない。静弥は呼ばなくていいよ。俺の食べる分が減る」
「うわっ、心せまっ。いったいいくつ食べるつもりなんだよ?」
「その質問はそっくりお返しするよ。いったいいくつ焼くつもりなんだ?」
「愁がもういいと言うまで」
「では、この命尽きるまで言わない」
「ひでー。そんなことばっか言ってるとハゲるぞ」
「……道連れにしてやる」
俺が道なき道を行くというのなら、引きずってでも連れていく。
俺を揺らせるのはおまえだけ。
愁は手を伸ばすと、湊の前髪をオールバック風にかきあげた。
2
梅雨の合間の空は青く、ツピツピツピと小鳥のさえずりが聞こえる。弓道場の扉に手をかけるときの高揚は、何度繰り返しても消えることはない。学校という世界に突如現れる異空間。湊はそこが好きだった。
風舞高校弓道部では、目前に迫った地方大会へ向けて稽古に励んでいた。
静弥は袴に着替えると眼鏡をはずした。隠れていた右目横のほくろが露わになる。
「昨日は、湊が愁を連れて帰ってくるから驚いたよ。あのあと、愁から連絡あった?」
「夏休みに入ったら一緒に稽古しようってさ。静弥も来るだろ?」
「もちろん行くけど、愁のやつ、僕の顔見てなんて言ったと思う? 『なんで来た?』だよ? 元チームメイトになんたる無礼。今度お仕置きしてやる」
「そりゃ、静弥がサッカーについて語りだすと止まらないからだよ。愁はほんと腹減ってたんだな。帰りのバスでも寝ちゃってさ。中学のとき、遠征帰りのバスでよく寝てただろ?」
「……愁は僕の隣に座ったときは、一度も寝たことないよ。僕だけじゃなくたぶん誰の隣でも」
「そうだったっけ?」
「愁はプライドが高くてカリスマ性のある男だからね。皆、愁を前にすると萎縮してしまうというか、かしこまってしまうものだから、愁が素になれるのは湊くらいだったんじゃないかな」
「弓が上手い以外はフツーの男だと思うけど」
「湊の普通という感覚は麻痺してるよ」
そばで二人の話を聞いていた遼平が、湊におぶさるように寄りかかった。
「俺も藤原くんと話してみたい。かっけえよな。俺もあんな風に引けるようになりたい」
「遼平重いって。なんでおれのそばにいる体のデカイやつは、やたら寄りかかるんだ? わかった、遼平も一緒に引きに行こう」
「マジで? やりぃ! 藤原くんも四寸伸の弓使ってるんだよね?」
「ああ、身長百八十センチ超えの高校生って珍しいからね。体格のいい人にはいい人なりの悩みがあるだろうし、おれたちじゃわからないことも愁なら答えられるかもしれない」
隅のほうで着替えていた海斗が、鋭い視線を向けた。
「おまえら、敵と慣れあってんじゃねえぞ。鳴宮は県大会決勝で皆中決めたからって、気抜いてんじゃねえよ」
「敵って言っても弓友だし、上手い人の射を見るのは勉強になるって、小野木だって思うだろ?」
「背が高くて射の上手い人なら、ここにもマサさんっていうコーチがいるじゃねえか」
「マサさんと愁じゃ引き方が違う。どっちが遼平に合うかわからないじゃないか」
海斗と湊が互いを下の名前で呼んだのはあの試合の一瞬だけで、またもとの名字呼びに戻ってしまっていた。
そこへ「メッハー」という声が聞こえた。
七緒は満面の笑みを浮かべながら、海斗の顔をのぞき込んだ。
「もう、かっちゃんは恥ずかしがり屋さんだなあ。『俺も桐先の藤原には興味がある。なんで俺も誘ってくれないんだよ。誘って、誘って』って、素直に言えばいいのに」
「なーなーおー。ねつ造してんじゃねえ」
七緒は舌を出した。
五人は準備を終えると、試合形式の稽古に入った。
弓道は「近的」と「遠的」があり、湊たちが行っているのは近的競技だ。二十八メートル先の直径三十六センチの霞的にあたった本数を競う。地方大会では一チーム五人で一人四射ずつ、計二十射を制限時間内に射る。
矢を射る位置「射位」でいったん跪坐し、脇正面に向きを変えたのち、立って足踏みをして射を行う場合を「坐射」といい、射位で立ったまま足踏みをして行う場合を「立射」という。左手―右手を「弓手―妻手(馬手)」または「押手―勝手」と呼び、一本の矢を射る過程を八項目にわけて名称がつけられた。これを『射法八節』という。
射法八節は以下のとおりだ。
一、足踏み足を踏み開き、弓を射る正しい姿勢を作る。
二、胴造り弓を左膝に置き、右手は右腰に取る。このとき「弦調べ」「箆調べ」も行う。
三、弓構え右手を弦に掛け(「取懸け」)、左手を整え(「手の内」)、的を見る(「物見」)。
四、打起し弓矢を持った左右の拳を上にあげる。「正面打起し」と「斜面打起し」がある。
五、引分け打起した弓を左右均等に引分ける。方法は三つありその一つは「大三」を取る。
六、会引分けの完成された状態。
七、離れ発射のこと。
八、残心(残身)矢の離れたあとの姿勢。
一番前の大前・海斗は大きく足を踏み開いた。
矢は二本「一手」を持つ。一本は弓に番え、もう一本は右手の小指と薬指で持っている。
右手で弦を取り、左手を整えると、そのまま静かに両拳を同じ高さに打起した。弓を押し、弦を引いて左右に等しく引分け、矢先を的中心へと寄せていく。弓の復元力に負けないよう、背筋を伸ばして縦に伸び、左右の二の腕を張りあって横に伸びる。高らかな弦音とともに矢は的へと向かった。「よし」という女子の声援があがる。
海斗に倣い、遼平、静弥、七緒、そして一番後ろの落・湊と、前から順番に一射ずつ矢を放ち、二十射を終えての結果は四・二・三・三・三の計十五中となった。
トミー先生とマサさんは五人の前に立った。
「県大会と地方大会のあいだは接近しておってせわしないが、その調子じゃよ」
「はい!」
遼平の元気のいい返事に、トミー先生は笑顔を大きくした。
「射型を良くしようというのは、的中を度外視しようということではないんじゃ。矢をまっすぐ飛ばすためには、小手先の技より体全体を使って引いたほうが狂いが少ないんじゃよ」
「おおっ、なるほど」
「弓道の基本体型は、足、腰、背骨、首を軸とすると縦線と、両肩、両腕、両肘、両手の横線の組み合わせからなる『縦横十文字』の形じゃ。射法八節は、この基本体型を作りあげる方法を説明したもの、いわば的中のためのルーティンを法則化したようなものだと思ってほしい」
「ルーティンって、野球選手がバッターボックスで必ず行う一連の動作のこと?」
「そうじゃな。数ある作法も誰かがはじめたルーティンを他の人が真似して、法則化され、広まったのかもしれんのお」
「さすがトミー先生、物知りっすね」
「いや、じつはテキトーに言っとるだけじゃから」
「テキトーなの? なんだあ」
遼平の気の抜けた返答に、場内は一瞬で和んだ。
トミー先生は遼平の指導に力を入れていた。弓道の近的競技は的中制で持ち点が決まっており、一発逆転は望めない。一人一人がはずさないようにする以外に勝利はないのだ。
マサさんは湊を、鏡のある巻藁前に呼んだ。
「なんだか今日はやけに右肘をひねってるな」
「あ、ちょっと愁の射を真似してみたんだ」
「シュウ?」
「桐先高校の藤原愁、元チームメイト。このあいだ西園寺先生宅でばったり会って」
「西園寺知良先生か? またビックネームが出たな。知り合いなのか」
「愁とおれの、弓道の最初の先生。ご高齢ということもあったけど、部活で的前に立てるようになったのなら、先生は二人いないほうがよいでしょうとかおっしゃって、教わったのは中一の終わりまでなんだけど」
「五年間、射会や式典など公式の場所で絶対はずさなかったという伝説的な方だ。言われてみれば、藤原の射型は西園寺先生に似ているかもしれない。上手い射手は『手ぬぐいしぼり』とか『半捻半弱』と言って、弓手は時計まわり、妻手はその反対にひねりを加えているんだ」
「おれもやってみたくて。県大会でどこかの先生に、もう少しひねってみたらと言われたし」
「湊の場合は妻手のほうが勝ってしまって、横から見ると弓が真っすぐではなく後ろへ傾いてしまってる。それと、サポーターをつけているが、まだ左手首は痛むのか?」
「鈍い痛みがあるというか、悪くはなってないんだけどすっきり治らないっていうか」
「弓を引くときに、左手首が曲がっていると痛める。鏡で自分の残心を見てみろ。わかるか? 離れの瞬間に手首が折れてるんだ」
「全然、気づかなかった。なんで手首が折れるんだろう?」
「俺がさんざん言ってることだ。はずしてるときはだいたい弓手が弱い」
「もしかして手の内の小指の締めのこと? やってるつもりなんだけどなあ」
「つもりじゃだめなんだ、おまえはやってない。自ら課題を増やしてないで、まずは俺の言うことをやってみろ。その癖を直さないと、引けば引くほど手首を痛めることになるぞ」
「わかってるよ」
「今のおまえの弓の師匠は誰だ?」
「えっ、……トミー先生とマサさんです」
「そうだ。俺以外のやつの色をつけるな」
なんなんだ、なんなんだ。
そんな言い方しなくてもいいじゃないか。
最近のマサさんは手厳しい。頭ではわかっているのに、体現することができないもどかしさ。不甲斐なさ。
湊は左手をさすった。