ツルネ ―風舞高校弓道部― 3
序章
白い竜が大空をまたいでいる。
日に照り映える雪には野うさぎの足跡が刻まれ、山の多くの木々が葉を落とすなか、とこしえの葉のもと南天の紅い実が揺れる。普段は静かなその場所は、鳥のさえずりとなじみの顔がゆきかう程度だが、この日ばかりは行列をなしている。
町の小さな神社だった。中学生の湊は節分祭に来ていた。節分は立春の前日に邪気払いをして福を迎え入れる行事だ。
同じ桐先中学弓道部一年の、愁と静弥の姿もあった。祭りの開始を待ちわびる人々と同様に、三人も高揚が隠せない。ほどよい距離を保ちつつ進み、場所取りを済ませた。
「豆まきは家で毎年してるけど、こういうお祭りに来るのははじめてだ」
好奇心いっぱいの幼子のような瞳に、つられて静弥の頬もゆるむ。
「そうだね。鬼は外、福は内っていう湊の大きな声が、僕の家まで聞こえてくるよ」
「あー、やっぱり聞こえてたか。クマが反応しているのは知っていたんだけど」
クマというのは静弥の家で飼っている犬のことだ。湊の気配を察知すると、生垣の穴から顔を出して待ち構え、生垣の内側でははち切れんばかりに尻尾を振っている。一緒に遊びたくて仕方ない様子だ。どうやらクマは湊のことを、兄弟と思っているらしい。
湊を挟んで反対側にいた愁は、オニハソト、オニハソトとつぶやいた。
静弥は目をすがめた。
「愁、今、僕に向かって言ったよね?」
「失礼。俺としたことが心の声が洩れてしまった。湊を誘うともれなく静弥がついてくる」
「僕を除け者にしようとしたって無駄だからね。それに湊は抜けてるところがあるから、藤原家のご子息にご無礼があってはいけないと思って。見守っておかないと」
「竹早家ご次男のお手を煩わせるほどのことではないよ」
「いえいえ、ご遠慮なさらず」
貴公子と騎士に挟まれて、庶民の湊はたじたじだ。二人のやりとりはいつもこんな感じだった。あまり他人に興味を示さない愁がこれだけ反応しているのは、仲がよい証拠かもしれない。
にぎやかな気配に誘われて、鳥までも甲高い声で鳴きはじめた。目の調子が悪いのだろうか。辺りが霞んで見える。巫女が振る鈴の音が響くと、けぶるなかから人影が現れた。冠をかぶり、瑠璃や緋色など鮮やかな装束に身を包んだ神官が本殿へと向かう。本殿へあがると祝詞を奏上し、周囲を取り巻いた参拝の人々に榊を振るった。
「これから『鳴弦の儀』を執り行います」というアナウンスが流れた。
湊は愁に尋ねた。
「めいげんって?」
「見ていればわかる」
弓を手にした者たちが舞台にのぼった。弦を三十センチほど引き、放す。
ひやう、ひやう、ひやう。
音がこだますると、さきほどまで濁っていた視界がクリアになったような気がした。琴の音にも似た波動は、体を覆う穢れを拭い去る。
「鳴弦の儀とは、矢を番えずに、弓弦を打ち鳴らして魔を祓う儀式のことだ。平安時代から伝わる。皇室の『読書鳴弦の儀』では、漆を塗っていない白木弓に七・五・三と籐を巻いた相位弓を用い、古事記などを朗読しながら行うそうだ」
「弓は神事と関わりが深いんだね。破魔矢とか」
「弓は神器だから。走る馬上から的を射る流鏑馬や、家を建てる際の上棟式で弓矢を北東に向けて飾る鬼門除けなどいろいろある」
「さすが愁、弓のことは詳しいな」
「俺は日本が好きなんだ」
湊は『弓と禅』のなかで、オイゲン・ヘリゲルが阿波範士のもとに入門時、浄めと祓いの事始めの動作として、弓弦を打ち鳴らすシーンが描かれていることを思い出した。
この本にはドイツ人で哲学者のオイゲン・ヘリゲルと弓聖と謳われる阿波研造範士の日々が記されており、二人は師弟の関係だ。ヘリゲルは神秘家になることを目指し、その入り口として弓道を選んだ。彼のいう神秘とは禅によって悟りを開くこと、解脱の体現だろう。阿波範士は「暗中の的」という、暗闇のなかで矢を二本射て、一本目は的の中心を貫き、二本目は一本目の筈を砕き、箆を裂きながら並んで中心に刺さるという神業で、神秘を具現化して見せた。
ヘリゲルは豆まきも体験したのだろうか。不思議な風習ととらえたのだろうか。
太鼓の合図とともに、本殿には年男と年女が並んだ。「鬼は外、福は内」の声に乗せて福豆を撒くと、その動きに合わせて人々の腕が波打つ。豆を撒くパラパラという音で鬼を追い払うのだ。福豆をとらえようと、湊たちも手を伸ばした。
ふと、湊は亡くなった母の面影がよぎり、手袋をした手をそっと握った。
――母さん、おれの弓友です。見えていますか。
約束は果たせましたか。
蛇腹のごとき筒状の雲は、東から西へと、はるかかなたまで続いていた。
第一章 つむじ曲がり
1
「あ、あの、鳴宮先輩、おでこさわってもいいっすか?」
「……へ?」
若楓が春を告げている。風舞高校弓道場の棚には、真新しいゴム弓が積まれていた。
湊は、袴の結び紐に手をやった。ジャージ姿の新入生の言葉が理解できない。
一年の神林は控えめで、友達の横でうなずきながら笑っているような少年なのだが、目を高速でまばたきさせている。
「えっと、突然どうしたんだ? 罰ゲームか何かなのか?」
「違います。如月先輩に、弓道が上手くなるにはどうしたらいいっすかって聞いたら、鳴宮先輩のおでこを撫でることだって」
花沢と白菊、妹尾の女子三人と話している如月七緒に目をやった。湊の視線に気づいた七緒は、指を三本立てて「メッハー」と手を振る。
「七緒、またテキトーなこと言って」
「そんな顔しないの、湊。オレ、嘘は言ってないよ。個人的感想をそのまま伝えただけっしょ。ほらほら、かわいい後輩の頼みなんだから聞いてあげなくちゃ」
それを聞いた遼平は、目をキラキラと輝かせた。
「俺も俺も! 上手くなりたーいっ」
遼平は素早く湊の前にまわり込むと、湊の額をぺしぺしと叩いた。先輩にならい、神林もおでこをさする。目的を成し遂げて満足げな二人を前に、湊は絶句した。前髪を手で押さえながら後退すると、何かにぶつかった。
静弥だ。
「僕は頭がよくなるって聞いたよ」
隣にはコーチのマサさんこと滝川雅貴もいる。
「静弥、それは違うな。おでこじゃなくて、足の裏をさわると願い事がかなうんだ。どれどれ、湊、足出してみて。ありがたやー、ありがたや」
「やめろって! おれは『びんずるさん』でも『ビリケムさん』でもないから!」
湊の叫び声をよそに、マサさんは口元を押さえてクスクスと笑っている。つむじをぐりぐりしてやろうかと思っていると、もう一人の新入生が歩み寄った。
欅は意志の強そうな太い眉を持ち、黒々とした大きな瞳は眼光鋭く、視線の先がはっきりわかる。
「先輩方! ふざけてないで早く稽古をはじめてください!」
続いて海斗も言った。
「欅の言うとおりだな。マサさんまで何やってんだ?」
「ふふ、悪い、悪い」
マサさんは海斗の肩を叩いた。
湊たちは高校二年生になり、風舞高校弓道部は二十二人の新入部員を迎えた。男子十人、女子十二人、うち経験者は男子二人、女子三人。神林輝は経験者、欅桂真は初心者だ。
練習開始だ。
弓道用グローブ「弽」を右手に挿す。
二本の矢「一手」を取り、左手は弓を持つ。
海斗、遼平、静弥、七緒、湊の五人は入場口に並んだ。
弓道とは武道の一つで、弓で矢を射る術のことだ。武道とは武士道のことであり、オイゲン・ヘリゲルは弓道を「射における武士的芸術」とし、宮本武蔵は「武士とはただ、死ぬといふ道を嗜むだけでよい」と説いた。
競技としては「近的」と「遠的」があり、彼らが行っているのは前者だ。二十八メートル先の直径三十六センチの霞的にあたった矢数を競う。インターハイでは一チーム五人の「五人立」にて、一人四射ずつの「四つ矢」、計二十射する。
「本座」にて揖をしたのち前へ進み、矢を射る位置「射位」でいったん跪坐し、脇正面に向きを変えたのち、立って足踏みをして射を行う場合を「坐射」といい、射位で立ったまま足踏みをして行う場合を「立射」という。左手―右手を「弓手―妻手 (馬手)」または「押手―勝手」と呼び、一本の矢を射る過程を八項目に分けて名称がつけられた。これを『射法八節』という。
射法八節は以下のとおりだ。
一、足踏み(Stance)足の位置。的と自己との位置の決定。
二、胴造り(Set)行射の基礎作り。体を用意する。整える。
三、弓構え(Bowset)弓に矢を番える。的と対決のプロローグ。
四、打起し(Set up)弓矢を持ち上げる。
五、引分け(Drawing)打起した弓を左右均等に押し開く。
六、会(Fulldraw)的と自己との一体化。弓を引き絞る。
七、離れ(Release)矢を放つ。離す。解放する。自由にする。
八、残心(残身)(Follow through)最後まで追行すること。十分に伸ばしきる。
五人は滑るように射場を進んだ。的の前に並ぶと前から順番に射っていく。矢を番えた弓を高く打起し、引き絞ると、弓と人との美しい十文字が完成する。四人が甲矢と乙矢の二本を射終え、射場には湊一人が残った。右手が弾かれると心地よい的音が響いた。
矢取りに行き、放った矢を持ち帰る。矢取り道では羽根を矢道に向けて歩く。一年生は弓道場の外に集合した。
トミー先生は言った。
「基本体イコール体配も覚えてきたようじゃし、今日もゴム弓をやっていこうか」
弓道部に入ったからといって、すぐに弓と矢を持つことはできない。まずは徒手射法といって、道具を持たずに弓を射る動作を真似る。エア弓道といった感じだ。ゴム弓などの道具は、部所有のものが貸し出される。
女子の一人が声をかけた。
「滝川コーチ、こちらも見ていただけますか」
「了解。妹尾さん、手伝ってくれるかな」
妹尾たちはマサさんの見立てに合わせ、女子の腕や背中などに手を添えて射型を修正する。射型とはフォームのことだ。
稽古も終わり、トミー先生とマサさんが退出したころ、欅は大きくため息をついた。
「小野木先輩、いつになったら弓を握れるんですか? ストレッチ、体配、徒手、ゴム弓――こんなものばかり。袴もはけないなんて」
「愚痴るな。初心者はそんなもんだ」
「そんなもん?」
「俺が中学で弓道をはじめたころは矢取りと的張り、あとは『よし』の声出しばかりで、的前に立てたのは三年が引退してからだった。まずは弓道場の掃除からだろ」
「いったい、いつの話をしているんですか? まずは掃除からなんて前時代的です。非効率で意味のないこと。常識は疑えです」
「掃除は生活の基本だろ? 基本を学ぶことのどこが非効率なんだ。雑用だって立派な仕事だ」
「従順なんですね。そういう頭を使わずに言われたことだけやってる人は、いいように利用されるだけです。必要なことなら、上に立つ者こそ率先してやるべきじゃないですか」
「そういうことを言ってるんじゃねえ。礼にはじまって礼に終わるのが武道だ」
「正直がっかりです。風舞は一年生だけのチームで全国二位になったというから、さぞかし画期的な練習法を取り入れてると思ったら、滝川コーチにいたるや、新人の射型修正を女子部員にやらせている始末」
「は? いい加減にしろよ、おまえ」
二人の会話に、静弥が割って入った。
笑みを浮かべた口元に、彼を昔から知る者は凍えそうになる。
「欅が早く弓を引きたいという気持ちは僕にもわかる。徒手射法やゴム弓は、射法八節を学ぶプログラムだよ。いきなり弓と矢を手にしたら、弦で顔を打って痛い思いをしたり、矢がどこに飛んでいくかわからなかったりして危険だからね。ケガと事故を最小に防ぐために編み出された練習方法なんだ」
「射法八節は動画投稿サイト『ヨーチューブ』を見て知っています。俺に足りないのは実践と経験なんです」
「足の運び方は覚えた?」
「左進右退と下進上退の二つですよね。進むときは左足から、退くときは右足から運ぶ。または進むときは下座のほうの足から、退くときは上座のほうの足から」
「教本は読み込んでるみたいだね。右に出る者はないということわざがあるように、日本では昔から向かって右が上座、左が下座。つまり、右大臣より左大臣のほうがえらい」
「今、国際儀礼では逆なんでしょう? 何事も変革が必要です。弓道衣は試合では白のみとか保守的じゃないですか。伝統という言葉を盾に手をこまねいていませんか。何もしなければ失敗して叩かれることもない」
「何色がよくて何色がダメなのか、線引きが難しいんだと思う。みんな一緒だと経済格差も出にくいしね。皇宮護衛官の剣道家は白道着に白袴なんだけど、もとは衛生面に配慮したためらしいよ。欅は実践と経験が足りないと自覚している。物事の意味や理由はやってみないとわからないこともあると思う。やらないうちからこうだと決めつけるのは、それこそ浅はかだ」
「決めつけてなどいません」
「変革を一人の力でやれると思うのなら、それはおごりだよ。欅の言葉に賛同し、ときに諫めてくれる同志はいるの? 風舞の指導者は常に情報を更新しているよ。指導するときに男性が女性に触れるのは極力控えているんだ――昔と違ってね」
沈黙した欅のそばで、神林が視線を泳がす。
湊は声をあげた。
「待って、静弥! 中学から弓道部に所属している自分たちにとってはあたりまえのことでも、高校ではじめて弓を手にする人にはわからないことだらけなんじゃないかな。これは連絡不足が原因だと思う。以前、小野木が怒ったのも『俺は聞いてない!』だったよね? 隠し事をするのは俺らを信用してないからだって。察してくださいじゃ伝わらないよ。おれは静弥と妹尾さんとマサさんが、遅くまで話し合っているのを見てた。少ない部の予算からゴム弓を新調したことを知っているから」
静弥は一呼吸すると、みんなに片づけの号令をかけた。人々は散り出す。ふざけていると注意した相手にフォローされたのが悔しかったのか、欅は湊とは目も合わせない。
神林は、モップを取りにいった欅を確認すると、湊と七緒に駆け寄った。
「先輩方、すみません。俺が練習前に弓道と関係ないことではしゃいだりしたから……。欅は焦ってるだけなんす。早く弓が引きたいって」
七緒が答えた。
「うん、わかってる。かっちゃんはいつもどおりだし、静弥も怒ってるわけじゃない」
「いつもどおりなんすか?」
「そう、あれが平常運転。静弥は微Sで、かっちゃんはドMなの。トミー先生にも相談してみるから安心してっしょ。もう一回『みなこ』さわっとく?」
「みなこ?」
「『みな』との、おで『こ』」
神林と湊は、同時に目をまばたきさせた。
夕暮れを背に、男子学生五人と自転車のシルエットが浮かぶ。
湊はバス停そばの駄菓子屋前にいた。普段は自転車通学で、部活が終わると食材調達にスーパーへと走るのだが、この日はみんなで寄り道だ。甘い匂いが鼻をかすめ、心なしか頬も赤く染まっている。カプセルトイをまわす子どもたちの声が聞こえる。
遼平は、手にしたチューチューアイスを二つに折った。
「湊、半分やるよ。なんか今日、頭が言葉でいっぱいになったような気がする。えっと、神様から遠い足から進むだっけ? 俺、なーんも考えないでやってた」
「下座心だね、させていただく心。無意識でできるのは体で覚えてる証拠だよ。あっ、これ、懐かしい味」
「美味いだろ?」
「遼平、僕の分は?」と静弥が催促する。
「静弥はいつもあげてるから、今日はなし」
そう言っているあいだにも遼平はアイスを平らげ、次の駄菓子の封を開けた。とっちゃんイカ、ベビームーンラーメン、うまいん棒と、次から次へと胃袋に収めていく。成長期の彼に栄養補給は欠かせない。
いとこ二人は花壇の縁に腰かけていた。七緒はカバンにぶらさげたカエルのキーホルダーを手遊びし、海斗は身を投げ出している。
「面倒くさいやつが入ってきたな」
「そう言わないの。かっちゃんだって面倒くさいやつっしょ?」
「は? ちげーよ」
「熱意があることはいいことだと思うよ。ただ頭でっかちになってるとこはあるかも。変革っていうほどオーバーにとらえなくても、改善点は考えてみてもいいかも。新入生にできるだけ多く残ってほしいことも事実だし」
七緒の視線に気づいた静弥がふっと笑む。二人を横目に、海斗は投げ出した体を起こした。
「そういや、いつもうるせえ七緒ファンクラブはおとなしいな」
「一年女子部員、オレの女の子たちに、如月先輩目的で弓道部に入ったんじゃありません。純粋に弓道がしたいんですって、はっきり言ったらしい」
「やるじゃねえか」
「ついでに言うと、こちらには立派なコーチもいらっしゃるので、ともね」
「あちゃ、どちらかというとマサさんねらいか」
七緒は遠い空に浮かぶ雲を目で追った。止まっているように見えた雲はゆっくりと流れていて、まるで鳳が空を横切っているようだ。
「今年もこの五人であの舞台に立とう」
「そんなことは、あたりまえだ」
海斗は口角をあげた。
頭を寄せて語り合う少年たちのかたわらを、バスが通り過ぎていく。赤い自動販売機とアイスの箱、夏祭りを告げるポスター。カプセルにはたくさんの宝物がつまっている。外灯に虹色の輪が点り、山からは烏の鳴き声がする。
静弥が花沢と白菊、妹尾の女子三人にメールを送ると、風が吹いた。
後日、弓道部部員全員が集められた。
部長の静弥は言った。
「みんな、アンケートに答えてくれてありがとう。一年生は入退場まで練習したので、今日はゴム弓と素引き、明日は的に向かう」
一年生は慌てた。こんな早くに的前に立てるとは想像していなかったのだ。
カリキュラムはこうだ。射位より約十二メートルの位置に遠的競技用の得点的を置く。直径は百センチだ。そのあとは弽の使い方を覚えて、巻藁に矢を射ってみる。並行して、矢道に入って垜から五メートル、十メートルと延ばしていき、仕上げは射位から射る。
ほころぶ新入生の顔つきに、花沢と白菊、妹尾の女子三人は「よし」と手を握った。
トミー先生が続けた。
「ある一般向けの教室で行われていたものなんじゃが、部活では初心者向けの弱い弓が足りなくてのお。それがなんと弓具店さんが五張も譲ってくださることになった。山之内くんのおかげじゃ」
遼平は鼻先を指でこすった。
「弓力が落ち着くまで慌てて買わなくていいけど、購入の際はぜひ当店へ、だってさ」
「三か月後には試合形式で引けるようになる。ただし、危険防止と安全配慮には十分心がけて、許可が出るまで一人稽古は禁止じゃよ。矢を番えるのは、顧問もしくはコーチがいるときにの」
欅は胸当てと、右手に軍手をつけた。素引きとは矢を番えずに弓を引くことだ。弦を右手で握り、引き絞ったら離さずに元に戻すのは、空打ちすると弦が切れて危ないためだ。
大的は大盛況だった。弓矢を構えるのもおっかなびっくりだが、弓を引く真似をするより、実際に矢を放つのは気持ちがいい。体中に振動が伝わり、得も言われぬ解放感に包まれる。
的と向き合う。弦の声を聞いてしまったら、もう弓から逃れられない。
次の段階は、垜間近で三十六センチの霞的に矢を射る稽古だ。矢道に人が立ち入ることになるので、一年生が使用しているあいだ、二年生は的前に入れない。巻藁稽古に専念する。
欅はその様子を見て、口をきゅっと結んだ。
「滝川コーチ、先輩たちの練習時間を奪うつもりなんかなかったんです……」
「巻藁は初心者用というわけではないよ。弓引きにとって大切な稽古だ。まあ、あいつらも後進育成に本気だってことだ。俺自身も風舞高校にはリバースメンターとして呼ばれているんだ」
「若手が上司に助言するという制度ですか? 俺、この状態がいつまで続くのかと不安で」
「人はわからないことに不安を抱く。見通しが立たないままずっと待つのはつらい。つらいことでも、いつまでとわかっていれば意外と肝が据わるもんだ。意図したわけではないが、情報を共有せず、新人を蚊帳の外にしてしまった。すまなかったな」
「そんな……。俺も事情をよく知らずに」
マサさんは静弥を呼んだ。
「これからは部長が毎月スケジュールを連絡する」
「少しでもよくしたいのは一緒だからね。いつもへらへらしてる胡散くさい大人より、正直な若者のほうが信用できる」
「誰のことを言っているのかな」
「さあ」
マサさんは欅の隣に立ち、同じ方向を見つめた。
「事実は一つでも解釈は人の数だけあるんだ。『尖る』の語源は『とが』で、『咎人』や『棘』と仲間語なんだ。古代の日本人は『とがる』ことは罪、集団の和を破るものと考えていた。村八分や嫌がらせがずっと続くわけだ。その意見は誰かに誘導されたものではないか。力ある者に忖度したものではないか。褒められて傲慢になっていないか。逆に疎んじられて恨みを抱いていないか。常に自分に問い直してみる必要がある」
「どうしたらいいんですか」
「愉しむことだよ。信頼に値する人になること。経験値をあげろ、情報を精査しろ、仲間を増やせ。真のボスと対戦するのはそれからだ」
マサさんと、そっぽを向く静弥の前で、欅は「ありがとうございます」と頭を下げた。
どこからか、ホトトギスの下手な鳴き声が聞こえてくる。
風舞高校弓道場で矢渡しが行われた。射手はマサさん、第一介添えは静弥、第二は遼平だ。それぞれ瑠璃紺、露草、山吹色の紋付を着ている。欅が用意したもので、ヨーチューブチャンネル『弓曳童子』の影響で、着物の古着を集めているらしい。
マサさんたちが退場すると、正座をした欅が待ち構えていた。
「マサさん、品格あふれる射でした。そのお着物もあつらえたかのようにお似合いですっ」
「あ、ああ、ありがとう」
どうやら新人に懐かれてしまったようだ。
一年生の弓道経験者五人も袴をはいていた。部内で試合を行うことになったのだ。男女混合十三人、坐射、四つ矢を二回の計八射。立順は一立目が一年男子二人と一年女子三人、二立目が二年男子五人、三立目は二年女子三人だ。
海斗は矢を見つめていた。湊を手招きすると、湊のおでこをぺしんと叩き、素知らぬ顔で立ち去った。
試合開始だ。大大前は一年男子の氷室だ。
存在を忘れられそうなほど寡黙で、前髪が片方長いため表情が読めず、どこかミステリアスな少年だ。だが射場に立つと雰囲気が一転した。かすかにのぞく眼はまばたき一つない。高く打ち起こされる弓。鋭い矢走りが起こった。的中だ。
続いて神林。ぎこちなさはあるものの、初心者ではないことがうかがえる。弓を引き絞り、矢先は的をとらえる。大の字に体を開くと、的九時のところにあたった。一本目があたり、安堵の表情が見て取れる。
一年女子三人が続き、二、三、一、〇、二中となった。
二立目は湊、静弥、遼平、海斗、七緒だ。
湊は両足を踏み開いた。足裏で大地の息吹を吸い取り、幹を通って枝葉へと伝える。
目の前の審査席には師匠二人が坐しているが、気を取られてはいけない。おれは一本の木、大木だ。人の営みを悠然と眺めつつ、ただ静かに息をする。
弓を打起した。太陽へと腕を伸ばす。大きく体を広げて日の光を浴びると、細胞が踊り出すのがわかる。しばらく身をゆだねると、トンと的音が響いた。
一方、七緒の足は大地をとらえていなかった。鼓動が早い。丹田ってどこだっけ? 体の中心って何? 自問自答を繰り返していると、矢の離しどころがわからない。放たれた矢はカシャンという鈍い音を立てた。その後も一本しか入らず、迷いの射となった。
三立目、大落は妹尾だ。女子のなかでも背が高く、引き締まった体と凛とした佇まいが美しい。矢が放たれると、「よし」と掛け声があがった。
結果、一位は静弥の八射皆中、二年男子の最下位は七緒の五中となった。
七緒の背が重い。何かと思ったら、大男が背中に張りついている。
「七緒が半分けちょいなんて珍しいな」
「最近、動画を見ていろいろいじっちゃったら、あたんなくなっちゃったんだよね」
「すぐ調子戻るよ」
「だね」
整列すると、トミー先生は告げた。
「皆にはだまっていたが、じつは今日の試合、地区大会の校内選抜じゃ」
花沢と白菊、妹尾の三人は目を丸くした。
「それって抜き打ちテストじゃない?」
「ひどいですわ、トミー先生」
「稽古を晴れとし、晴れを稽古とせよという教訓が実践できているか、試させてもらったよ」
紙が張り出された。