『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』
シリーズ刊行10周年記念企画
エピソード無料公開 第1弾
公開期間:1月24日~2月28日
「少女と自動手記人形」
わたし、覚えています。
彼女がいたこと。
そこにいて、静かに、手紙を書いていたこと。
わたし、覚えています。
あの人と、微笑う母の姿。
わたし、その光景を、きっと。
死ぬまで忘れないでしょう。
代筆屋とは古くから存在している職業である。
自動手記人形(オート・メモリーズ・ドール)の普及により一度は消滅しかけたが、古き良き職業というものは少なからず多くの人に愛されて守られるものだ。
機械人形の代筆屋が台頭している現在では、むしろその古風な職業ぶりがいいと懐古趣味な者達に評判である。
アン・マグノリアの母もまたその懐古趣味な好事家であった。
自然とウェーブがかったくせ毛の黒髪にそばかす、痩せっぽちの体が娘のアンとそっくりな母は、裕福な家の出の人だった。お嬢様として育ち、そのまま結婚し、歳をとってもやはりどこか「お嬢様」な彼女。ふんわりとした笑顔でころころと笑う姿は誰が見てもいとけない。
アンは母のことを振り返ると、今でも少女のような人だったなと思う。
何事も不器用な人なのに好奇心旺盛で、彼女が「これをやりたいわ!」と張り切り出す度に「やれやれまたか」とアンは呆れていた。
ボート乗りにドッグラン、キルト刺繍に東洋から伝来した生花。習い事が好きな人で乙女趣味な所があり、舞台を観に行けば必ず恋愛劇。
レースやリボンが大好きで、彼女は自分が着る服も童話の中のお姫様のようなドレスやワンピースばかり。娘のアンにもそれを強要し、親子お揃いの服を着るのを好んだ。
それなりに歳を重ねている母がリボンばかりの衣服を着るのはどうしたものかと思ってはいたが一度も口に出したことはない。
アンは母をこの世の誰よりも、それこそ自分の存在よりも好きだった。けして強い人ではない母を守るのは自分だけだと、幼い身でありながら確信していた。
それくらい、盲目に母を愛していた。
その大好きな母が病に罹り死期までの日数が迫っていた頃、アンは自動手記人形に出会った。
母との思い出はたくさんあるのに、アンが思い出すのはいつも不思議な来訪者がいた数日間のことばかりだ。
「それ」は良く晴れた春の日にやって来た。
麗らかな春の日差しをたくさん浴びた一本道。道の脇には雪解けから顔を出した花々が柔らかな風に揺られて首を振っている。
アンは「それ」が歩いて来る様子を家の庭から眺めていた。
アンの母が一族から引き継いだ古めかしくも味わいのある佇みの丘の上の洋館。
白壁に青い屋根、大きな白樺の木に囲まれたその様は御伽噺の挿絵のようだ。
家は周辺で栄えている街からかなり離れた場所にぽつんと建っている。全方向見渡しても隣家は見当たらない。その為、訪問客があれば窓からすぐにそれが確認できた。
「なぁに……あれ」
首元に大きな水色ストライプのリボンがついたスモックワンピースを着たアンは少し地味な顔立ちだが愛らしい。いま彼女は大きな暗褐色の瞳を零れそうなほど見開いていた。
アンは太陽の光を浴びてこちらに歩いてくる「それ」から視線を剥がすと、花の飾りがついたエナメルの靴を走らせて庭から家に舞い戻る。広い玄関を突き抜けて、一族の肖像画が飾られている螺旋階段を登り、ピンクの薔薇で作られたリースが飾られた扉を勢い良く開いた。
「お母さんっ」
息を切らして飛び込んできた娘を、母は寝台から身体を少しだけ起こしてたしなめる。
「アン、いつも部屋に入るときはノックをしてと言っているでしょう。それと挨拶」
指摘されてアンは内心むっとしつつも腰を落としてスカートの裾をつまみ会釈した。
その佇まいは小さなレディーと言ったところか。実際、アンは幼子だった。この世界に誕生してまだ七年。手足も顔もころころとして柔らかそうである。
「お母さん、しつれいします」
「よろしい。それで、なぁに? またお外で不思議な虫でも見つけたの? お母さんには見せないでね」
「虫じゃないの! 人形が歩いていくるの。えっとね、人形といってもすごく大きいんだけど、お母さんがすきなビスクドールの写真集に出てくるような女の人形がね」
舌っ足らずの喋り方で咳き込むように言う。母はそんなアンにちっちっと舌を鳴らした。
「女性の人形ね」
「もう、お母さん!」
「マグノリアの娘なのだから言葉遣いは優雅に美しく。はいもう一回」
アンは頬をぷくっとふくらませてから渋々言い直す。
「女性の人形がね! 歩いてくるの!」
「あらそう」
「お家の前の道でとおるのは車ばっかりでしょ? 歩いてるなら近くの乗合運行車の停留所で降りたのよ。あの停留所でおりるひとはきまってうちのお客さまよね?」
「そうねえ」
「だってうちのまわりってずーっと何もないもん。つまり、彼女はここにやってくるの!」
アンはそれに加えて、「わたし、あれは良くないものだと感じるの」とつけ加えた。
「今日は名探偵ごっこなのね」
早口のアンとは反対に、母はのんびりと喋る。
「ごっこじゃないの! ねぇ、扉も窓もぜんぶしめて……あの人形……人形の女性が入ってこられないようにしましょう! 大丈夫よ、わたしがお母さんを守るもの」
意気込み、腕をぶんぶんと振るうアンに母は苦笑する。子どもが戯言を言っていると思ったのだろう。それでも一応、遊びにつきあおうとゆっくりとした動作で立ち上がった。丈の長い薄桃色のネグリジェをずるずると床にひきずり部屋の窓の側へ立つ。
陽の光で、ネグリジェの下の細い体が透けて見えた。
「あら、あれって自動手記人形の娘じゃないかしら。そういえば今日到着するんだったわ!」
「おーとめもりーずどーるってなに……?」
「説明は後よアン。着替えを手伝って!」
それから数分、母は娘に求めたマグノリア家の優雅さなどかなぐり捨てて着飾った。アンは着替えこそしなかったが、着ているスモックワンピースの色に似たリボンを頭につけてもらった。母は母で、レースフリルが幾重にも重なって出来たアイボリー色のドレスワンピースを着て、肩には優しい黄緑色のショールをかけ、薔薇の形のイヤリングをつける。三十種類の花で作られた香水を空中に撒いて、その中をくるくると回り香りを纏った。
「お母さん、気合いはいってる?」
「異国の王子様と会うより気合い入れてるわ」
それは冗談ではなかった。
母が選んだ召し物は本当にとっておきの時しか着ない物だったのである。そんな母を見てアンもそわそわする。
――いやだな、お客さまなんて来なければいいのに。
アンのそわそわは喜びから発生したものではなかった。
来客といえば、子どもは緊張しながらも楽しみにしたりするものなのだがアンは違った。
物心ついた時から、母を訪ねてくる客は彼女に金の無心をしにくるものだと決まっていたからだ。母は呑気なもので訪ねてくれたことが嬉しくて、すぐにそれに応じてしまう。アンは母を愛してはいたがその金銭管理能力の低さと危機感の薄さには困っていた。
あの人形じみた姿の者も、この家の財産を狙ってきた輩ではないかと疑わずにはいられない。
それに何よりアンが嫌だと感じたのは、女はきっと母が好む姿をしていると遠目からでも分かったことだった。母親が自分以外に心を囚われる、それはアンにとって不快でしかない。
母が「早く会いたい!」と言って聞かないので二人は外に出て来訪者を出迎える手はずとなった。階段を降りるだけでも息切れをする母を支えながら外に出る。
木漏れ日溢れる世界。屋敷の中でしか動き回らない母の肌の色の白さがやけに目立つ。
――お母さん、なんだか前よりちいさい。
あまり陽光の下で顔を見ることがなかったが、随分皺が増えたような気がする。
アンはちくりと胸を痛めた。
死に至る病の手というのは誰にも止めることは出来ない。
アンは幼い子どもだが、今後彼女に代わってマグノリア家を切り盛りする唯一の後継者だった。すでに自分の母の命が短いことは医者から聞いている。その覚悟もして欲しいとも言われていた。神様は七歳の子どもにも容赦はしない。
――だったらわたしは、さいごまでお母さんをひとりじめしたい。
時間が短いのなら、その時間すべて自分に使ってほしいとアンは思っている。
そんな願いを持つ少女の世界に、いま異物が入り込む。
「ごめんくださいませ」
陽光溢れる緑の道からもっと光り輝く者が姿を現した。
アンは「それ」を間近で見た瞬間、やはり嫌な予感は的中したと確信した。
――ああ、わたしからお母さんを奪うひとだ。
どうしてそう思ったのか。
姿を見て、直感したとしか言いようがない。
「それ」は、恐ろしく美しい人形だった。
月のひかりで生まれたような輝く金糸の髪。青い瞳は宝石の輝き。ぷっくりと膨らんだ唇にひかれた真っ赤なルージュ。プルシアンブルーのジャケットの中にスノーホワイトのリボンタイワンピース・ドレスを隠し、碧眼とは色味の合わないエメラルドグリーンのブローチを付けている。ココアブラウンの編み上げブーツは淑やかに土を踏む。
手にした水色に白のストライプ柄のフリル傘と鞄を地面に置いて、二人の前でアンがしたより数倍優雅な礼をする。
「お初にお目にかかります。お客様がお望みならどこでも駆けつけます。自動手記人形サービス、ヴァイオレット・エヴァーガーデンです」
声は、容姿と同じくらい、玲瓏とした美しさで耳に響いた。
アンは「それ」の美しさに驚いてしばらく呆けた後、はっとして隣の母を見た。
恋に落ちた少女みたいに頬を染めて感動し瞳から星を瞬かせている。
――そしてやっぱり、良くないものだった。
アンはこの美しい訪問者が自分から母を奪う者だろうと預言者のように思った。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンは近年では自動手記人形(オート・メモリーズ・ドール)と呼ばれる代筆屋業をしている女だった。
どうしてそんな者を呼んだのかとアンが母に尋ねると。
「手紙を書きたい人がいるのだけれど、長くなりそうだから代わりに書いてもらおうと思って」
と答えた。確かに、最近では入浴も通いのメイドに頼るばかりの母だ。
長い書き物は難しいだろう。
「でも、なんであのひとなの……」
「美人でしょ?」
「びじんだけど……」
「彼女は業界きっての有名人なのよ。すっごい美人でお人形みたいなのも有名な理由の一つなんだけれど、とっても良い仕事をするんですって! あんな麗人なら側にいてもらえるだけでも幸せな気分になれるわ! その上、彼女と二人きりで手紙を書いてもらい、朗読をしてもらうのよ……これは男性じゃなくても震えるわね!」
母は美しいものは何でも尊ぶ性格だったので、アンは彼女が選ばれた理由に納得した。
「手紙くらい、わたしが書いてあげるのに」
アンの言葉に母が困ったように笑った。
「アンはまだ難しい言葉は無理でしょう。それに……アンには書いてもらえない相手なのよ」
その一言で、何となく相手が誰なのか分かった。
――きっと父さんに向けて書くつもりなのね。
アンの父は一言でいってしまえば家庭放棄人だ。家には寄りつかず、一家の大黒柱たる仕事も大してせず放蕩三昧。母とは恋愛結婚だったらしいのだが、アンはまったく信じていない。病気になった母を見舞いもせず、たまに訪れたと思えば家の壺や絵画を勝手に持って行って売ってしまい、酒や賭博に走るろくでもない男だ。
一応、昔は将来有望の家柄もそこそこの男性だったらしい。ただ結婚して数年後、父方の家はちょっとした商いに失敗して没落してしまい、財政に関してはマグノリア家に頼る形となっている。そしてそのちょっとした商いをした中心人物は父本人であると伝え聞く。
アンはすべての事情を飲み込んだ上で父を軽蔑していた。商いの失敗で挫折したとしても、また頑張ればいいではないか。父はそれをせず、母の病気や介護にも目を向けず、逃げてばかり。だからアンは父という単語が母の口から出るだけで嫌な顔をするようになっていた。
「またそんな顔して……可愛い顔が台なしよ」
眉間の皺を親指でぐりぐりと伸ばされる。母はアンが父を嫌っているのを憂いているようだ。ひどい仕打ちをされていても愛情はまだ残っているらしい。
「お父さんのことを悪く言わないで。悪ぶることも長くは続かないわ。今はそういうことがしたい時期なのよ。ずっと真面目に生きてきた人なの。本当よ。少し道がそれていても、私達が待っていてあげればいつかはちゃんとして帰ってくるわ」
アンはそんな日が来ないことを知っていた。来ても温かく迎えるつもりもない。
百歩譲って母の言うような状態だとしても、自分の妻が病に倒れて入退院を繰り返しているのに顔も見せないのは現実逃避ではなく愛情の希薄だろう。
もう長くないことくらい、知っているはずだ。
――父さんなんていなくていいわ。
初めからいないようなものだ。アンの中で家族という言葉が当てはまる人は母だけ。
そしてその母を悲しませるもの。それはたとえ父親でもアンにとっては敵だ。母との時間を奪う者。それはたとえ、母の希望でやってきた自動手記人形でも敵である。
――お母さんはわたしのものよ。
自分と母の世界を壊すものすべて、アンにとっては敵に値した。
母とヴァイオレットは庭に置かれていたアンティークの白ベンチとテーブルとパラソルの下で手紙を書く作業を始めた。契約期間は一週間。どうやら母は本当に長い手紙を書くつもりのようだ。もしかしたら複数の人に宛てているのかもしれない。
元気な頃はよくサロンパーティーなどを開き、屋敷に友人達を招いていた。いま現在その時に交流していた人達とはぱったりと連絡が途絶えてはいるが。
「書いてもいみないのに」
アンは傍には近寄らず、二人の様子を屋敷の窓からカーテンに隠れて観察していた。
母から手紙を書いている間は離れているように言いつけられていた。
『親子にもプライベートが必要でしょ?』
いつも母にべったりなアンには酷な命令である。
「……なにはなしてるのかな。だれに書いてるのかな。気になるなぁ」
出窓のへりに頬杖をついてため息を吐く。
お菓子やお茶の差し入れは通いのメイドがやってくれるのでアンの仕事ではない。
なので、良い娘を装って内情を探ることも出来ない。
アンは、ただ見ていることしか出来なかった。母の病に対して何も出来ないのと同じように。
「どうしてじんせいってこうなのかしら」
大人ぶった台詞を吐いてはみたが七歳児なので様になっていない。
しょぼくれた顔で観察を続けていると、その内に色々と発見があった。
二人はとても静かに作業をしているが、時たますごく楽しそうな時と悲しそうな時がある。
楽しそうな時は大抵母がはしゃいで手を叩いて笑っている。悲しそうな時は、ヴァイオレットに差し出されたハンカチで涙を拭っている。
母は元来、感情の起伏が激しい人だ。それにしても、とアンは思う。
出会って間もない人間に心を開きすぎではないのか。
――お母さん、まただまされちゃうよ。
アンは母を通して他人の非情さや無関心、裏切りや強欲さを学んでいる。
すぐ人を信用してしまう母が心配でたまらない。いい加減、疑う心を知って欲しい。
それとも、あの自動手記人形。ヴァイオレット・エヴァーガーデンにそうさせる力があるのだろうか。
自分の心を預けてしまう不思議な何かが。
ヴァイオレットは滞在期間中、屋敷の客間をあてがわれることになった。
食事に関しては母が共に食卓を囲もうと誘ったが断られている。どうして、とアンが聞くと。「食事は独りでしたいからです、お嬢様」と冷たく告げられた。
変わっているひとだとアンは思う。
母が病院に入院している間はどれほど温かい食事をメイドが出してくれても美味しく感じられなかった。独りで食べる食事のなんと味気ないことか。
ご飯とは、そういうものだ。
部屋で食べるヴァイオレットに食事を運ぼうとするメイドをつかまえて、アンは自分が差し入れをすると言い出した。敵を知るには、まず自ら接触を図らなくてはいけない。
献立はふかふかに焼かれたパン、鶏肉と色とりどりの豆が入った野菜スープ、ジャガイモと玉ねぎをニンニクと塩胡椒で炒めたもの。ソースがかかったローストビーフ。デザートに梨のシャーベット。マグノリア家ではいつものメニューだ。
中々に豪華な食事と言えるがアンは恵まれた環境で育っていたので質素だと感じた。
「お母さんが忘れていたのだからしかたがないわ。明日からはもう少しお肉もふやしてもらわないと。シャーベットじゃなくてケーキじゃないと。一応……お客さまだし」
何だかんだともてなす気概を忘れてはいないのは良家の教育の賜物だ。
客間である樫の木の扉の前までくると、「ねーえー、夜ごはんですよ」と声をかけた。
手は盆でふさがっている。
中からがちゃがちゃと物音が聞こえて、しばらくしてからヴァイオレットが扉をあけて顔を出した。その瞬間にアンは言う。
「おもたいの。はやく持って!」
「申し訳ありませんお嬢様」
謝罪と共にすぐに盆を受け取ってくれたが、無表情なので子どもの目には怖く見えた。
室内の机に盆を置くヴァイオレットの背後からアンは開け放たれた扉の中を覗く。メイドが定期的に掃除してくれている客室なので綺麗に整っている。寝台にぽんと置かれた旅行鞄が目についた。ぺたぺたと色んな国の通関証が貼られた革で出来たトロリーバックだ。
蓋が開いていて、中から拳銃が少しだけはみ出ていた。
あ、と思った瞬間。ヴァイオレットが扉まで戻ってきて視界からすぐに見えなくなる。アンがまた身体をずらしてそれを見ようとするが、すかさずヴァイオレットがまた阻んだ。パントマイムのショーのように二人で同じ動きを繰り返す。やがてヴァイオレットが根負けした。
「お嬢様……銃が珍しいですか」
「なにあれ、ねえ、あれほんもの?」
興奮した面持ちで尋ねるアンにヴァイオレットは物憂げに言う。
「……女の一人旅には護身が必要ですから」
「ごしんってなに」
「身を守る、ということですよお嬢様」
少し目を細めたその表情、その唇の動きにアンはぞくぞくと身震いした。彼女がもう少し大人だったなら、それが見惚れるという現象だと分かっただろう。
声と仕草で人を痺れさせる女など、魔性である。
アンはヴァイオレットが銃を持っていることより彼女の美しさに恐れおののいた。
「……あなた、あれ撃つの?」
指鉄砲を作って撃つ真似をしたらヴァイオレットにすかさず腕の形を直された。
「脇はもっとしめて下さい。手が緩いと反動に耐え切れません」
「ほんものじゃないわ。これ指よ」
「こういうことは遊びであっても正しい知識を持つべきです。いざという時の為に」
子ども相手にこの自動手記人形は何を言っているのか。
「知らないの? 女のひとがあんなの持ってちゃだめなんだから」
「銃を持つことに男女など関係ありませんよ」
さらりと言うヴァイオレットをアンは素直にかっこいいと思う。
「どうして持ってるの?」
「次の依頼場所が紛争地域なので……ご安心ください。こちらで使用することなどありません」
「あたりまえよ!」
アンの剣幕に、ヴァイオレットは少々押され気味で聞いた。
「……この屋敷にはこうした武装はないのですか?」
「ふつうのお家にはありませんっ」
ヴァイオレットは不思議そうな表情を浮かべた。
「では強盗など来た場合どうするのでしょう……?」
本当に疑問らしく、首を横に傾ける。そんな仕草をされると人形のような姿が更に際立つ。
「そんな悪いひときたらすぐにわかるよ。いなかだもん。あなたが来た時もすぐわかったよ」
「なるほど。過疎地域の犯罪率の低さはそういった点が挙げられるのですね」
勉強になったと頷く姿は、大人なのに子どものようだ。
「あなた、なんか、へん」
びしっと人差し指でヴァイオレットを指さして宣言した。アンとしては、嫌味を言ったつもりだったのだが、その時初めてヴァイオレットが少しだけ口の端を上げた。
「お嬢様、もう眠られては……。夜更かしは女性にとって大敵ですよ」
その不意打ちの笑顔のせいでアンはなぜか喉がからからに干上がって、それ以上何も言えなくなってしまった。薔薇色に染まった頬がときめきを如実に表す。
「ね、ねるもん。あなたもねないとお母さんに怒られるんだからね」
「はい」
「それによふかしすると、いけないよお化けがきてねなさいって注意しにくるんだからっ」
「お休みなさいませお嬢様」
アンは居ても立ってもいられなくなり足早にその場を去る。
しかし、歩き出しはしたがどうしても気になって一度後ろを振り返った。
まだ半開きのままだった扉の奥で、ヴァイオレットが銃を握っている姿が見える。ヴァイオレットの顔は常時能面のようで、あまり表情の違いが分からない。だがその時盗み見た横顔は幼いアンでもヴァイオレットがどう感じているのか読み取れた。
――あ、どこか。
どこか、寂しげだ。
今の彼女の姿には不似合いな硬質でいて暴力的なその武器。扱っている姿などアンにはまるで想像出来ないが、それはしっくりとヴァイオレットの黒手袋に包まれた手に馴染んでいる。両手で握るその銃の照門あたりを、ヴァイオレットはこつんと額につけた。
巡礼者が良くする、祈りの姿みたいだ。
ゆっくりと、廊下の角を曲がる前にアンの耳にはその祈りが聞こえてしまった。
『命令を、ください』
確かにそう言った。
アンの心臓は急に早鐘を打ち出した。
――顔があつい。ぽかぽかする。
どうしてこんなにもどきどきするのか。
それは大人の女の顔というものをヴァイオレットから垣間見てしまったからだったが、アンは自分では良く分からなかった。
――おかしいの。あのひとのこと嫌なのに。気になる。
関心は恋の一歩手前。
好きと嫌いなど、簡単に反転してしまうことがあるのをやはりまだアンは知らない。
アンのヴァイオレット観察はそれからも続いた。手紙の進行は順調のようで、封筒の束が増えていく。ヴァイオレットは窓から覗く彼女に気がついているのか、時たまちらりと視線を寄越した。その度にアンの心臓はどきどきと鳴り響く。アンはすっかり胸を抑えるくせがついてしまって毎日服がそこだけしわくちゃになってしまった。少女の変化は続いていく。
「ねぇ、ねぇ、ねぇったらっ。髪にリボンつけて」
「承知致しました」
母を取られて悲しいのに、怒りが湧かなくなる。
「パンはパンでもすっごくかたくて食べられないパンってなんだ?」
「スープに入れて煮込めば解決すると思いますが、そういうことではなく?」
手紙を書いている以外の時間、かまって欲しくて追いかけ回す。
「ヴァイオレット、ヴァイオレット」
「はい、お嬢様」
気がついたら他人行儀な「あなた」の呼び名から「ヴァイオレット」に変化した。
「ヴァイオレット! ご本読んで、一緒に踊って、外で虫を捕まえて」
「優先順位を教えてください、お嬢様」
ヴァイオレットもとっつきにくくはあるが、けしてアンを無下にしなかった。
――へんなひと。いっしょにいると、だんだんわたしもへんになる。
悔しいけれど、アンはヴァイオレットに夢中になっていた。
穏やかな日々はそれから突然終わりを告げた。
アンの母はヴァイオレットが来てから数日は元気だったが、段々と体調の悪さを訴えるようになった。外で風にあたったのが悪かったのかもしれない。熱まで出して、ついには担当医を家に呼び出す騒ぎにまでなった。そんな状態だというのに母とヴァイオレットは代筆作業を止めない。母は寝台に寝そべり、ヴァイオレットはその横で座りながら手紙を作り続ける。
アンは母の容態の変化が気が気でなく、心配で部屋に様子を窺い説得した。
もう手紙を書くのは止めにしようと。
たかが手紙の為に残りの命の灯火を散らされては困る。
そんなのは、絶対に御免だった。拒まれても無理やり部屋に入り抗議を続けた。
「どうしてそんなにまでして手紙を書くの? お医者さんもだめだって言ってるのに」
「いま書いてしまわないと、もう書けなくなるかもしれないわ。大丈夫よ。私、ほら……あまり頭が良くないから、言葉をひねり出そうとすると知恵熱が出ちゃうのよ。いやね……」
母は弱々しげに笑いながら取り合ってくれない。
その笑顔が、アンの胸に突き刺さる。
楽しかった時間が嘘のように消えて、急に辛い現実が戻ってきた。
「お母さん、もうやめて」
十秒前は元気でいても、三分後には息をしていないかもしれない。母はそういう病の人で、自分はそういう人と暮らしているという悲しさが戻ってきてしまった。
「お願い、手紙なんて書かないで」
それでこんな熱など出すなら。それで命を少し縮めているのなら。
「お願いよ、お願いよ……」
母がしたいことでも、して欲しくない。
「もうやめて!」
蓄積された不安と鬱憤が爆発した瞬間だった。思っていたよりもずっと大きく出た声にアンは自分でも驚く。普段はぶつけないわがままを、この時ばかりは言ってしまった。
「お母さんは、どうしてわたしのいうことを聞いてくれないの? わたしといるよりヴァイオレットといるほうがいいの? どうしてわたしをみてくれないの!」
もっと可愛らしく言えばよかったのかもしれない。つい、悲しくて。
震える声で、責めているように言ってしまう。
「わたしは…………いらない子なの?」
ただこっちを見て欲しいだけなのに。
母はその言葉に目を見開いてすぐに首を横に振った。
「そんなわけないわ。そんなことあり得ないわ。どうしたのアン」
慌てて母が機嫌をとろうとする。
頭を撫でる為に伸ばされた手からアンは嫌々と逃げた。今は触れてほしくない。
「わたしのいうことちっとも聞いてくれないわ」
「……手紙を書いているから」
「わたしより大事な手紙なの?」
「アンより大事なものなんてないわよ」
「うそつき……!」
「嘘じゃないわ」
母の声は途中で裏返り、悲しみを含んでいた。それでもアンは言葉の追撃を止めなかった。
思い通りにいかない悔しさが、滲み出る。
「うそつきよ! ずっとうそつき! いっつも、いっつも、うそばかり! お母さん、ちっともよくならないじゃない! 元気になるって言ったくせに!」
言ってから、これは口走ってはいけないことだったとアンはすぐ後悔した。普段なら、喧嘩腰の会話でも親子の他愛もないやりとりで済んだかもしれない。しかし今日は違った。熱で顔を赤くした母は微笑んでいたが、笑顔を固めたまま黙りこむ。
「お母さん、ねぇ」
アンはそんな様子の母にうろたえる。先程までの勢いを急に無くした。何か言い繕うとしたら口元に手を当てられて遮られる。
「……アン、お願い、少しの間だけ外に出ていて」
囁く母の瞳には涙が浮かんでいた。ぐらぐらと揺れる大粒のしずくはやがて頬を伝う。
病気で苦しい思いをしている時も常に微笑みを絶やさなかった母が涙を見せたことに、アンは衝撃を受けた。
――お母さんが泣いた。
母が泣かない人だから、大人は泣かない生き物なのだろうとアンは思っていた。それが誤りだと気づき、とても大変なことをしでかしてしまったと心臓が騒ぐ。
――お母さんを傷つけた。
他の誰よりも、自分は絶対にしてはいけないことだったのに。
世界で一番母を守る存在でありたいと思っていた自分が、彼女を泣かせた。
「お、お母さ……」
謝ろうとしたが、ヴァイオレットが犬の子を遠ざけるように部屋からアンを追い出した。
「やめて! はなして! はなして!」
抵抗の甲斐なくアンは廊下で独りぼっちになる。
閉めだされた扉の向こうで母のすすり泣きが聞こえた。
「お、お母さん」
アンは動揺しながら扉にすがりつく。
「ねぇ、お母さんったら」
――ごめんなさい、泣かせてごめんなさい。そんなつもりじゃなかった。
「お母さん、お母さん」
――ただ体を大事にして欲しいだけで。それで、それで、出来るなら一秒でも長く自分といて欲しいだけで。
「……お母さんっ」
――それだけなのに。
「お母さんったら!」
――わたしが、悪いの?
返事もくれない。その寂しさにまたむくむくと苛立ちの気持ちが湧く。アンは力強く扉に拳をぶつけようとした。だが結局何も傷つけることなく手は脱力し、だらんと下がる。
――わたしがわがままなの?
死の床につこうとしている母。
残される娘。
――わたしはわがままなの?
後を濁さぬよう、生きている間に手紙を書き続ける母。
それを嫌う娘。
――いっしょにって、思うのがそんなにだめなことなの?
もう瞳に堰き止められていた涙は決壊寸前だった。アンは息を大きく吸い込み一息に叫ぶ。
「お母さんはわたしよりほかのひとが大事なの!?」
泣いていることがすぐに分かる怒鳴り声だった。くぐもっていて、音程が狂っている。
「お母さん……手紙なんて書かないでわたしといっしょにいてよ!」
訴える内容は子どもだ。自分の要求が通らないと泣き叫ぶ子どもそのもの。
「わたしはお母さんがいなくなったらひとりよ! ひとりぼっちよ! いつまでなの? わたしはいつまでならお母さんといっしょなの? これからずっとひとりになるなら手紙なんか書かないで……いま、わたしといっしょにいて! わたしといてよ!」
そう、アンは子どもなのだ。
「……わたしといっしょにいてよ……っ」
どうしようもなく、まだ幼い。
たった七年しか生きていない母親が好きなだけの子ども。
「いっしょに……いたいの」
本当はずっとずっと、神様が下した運命に泣き喚いていたかった。
「……お嬢様」
ヴァイオレットが部屋から出てきた。
顔を涙でぐしゃぐしゃに濡らしているアンを見下ろす。
てっきり冷たくあしらわれるかと思ったが、肩に手を乗せられた。その行為の温かさに向けようとした敵意が削がれる。
「お嬢様の大切な時間を、私が消費していることには意味があります。どうか奥様に対してお怒りにならないでください」
「……だって、だって……だってぇ!」
小さなアンの目線に合わせるように、ヴァイオレットはその場にしゃがんで言う。
「お嬢様がお辛いのは当たり前です。その小さいお体で、既に奥様のご病気を受け止めていらっしゃる。普段は文句ひとつも言わず、奥様のお世話もなさって。貴方はとても立派な方です。アンお嬢様」
「ちがう、ちがうもの……ただ、お母さんと長くいっしょにいたいだけだもの」
「それは奥様も同じお気持ちですよ」
ヴァイオレットの言葉は慰めにしか聞こえない。
「うそ、うそ、うそ、うそ、だって……わたしよりしらない誰かへの手紙ばっかり。いちばんそばにいるわたしより、おみまいにも来ない誰かよ。うちに来るひとで、お母さんのことほんとうに心配してるひとなんていないのに!」
――みんなみんな、お金のことばっかり。
「わたしだけ、わたしだけしかお母さんのことほんとうに考えてない!」
暗褐色の瞳には大人とそれを構成するすべての要素が嘘にまみれて見えていた。
アンは肩を震わせ涙を床に落とす。涙で歪む視界は不明瞭で、それは世界そのものにすら感じられた。世の中に本当のことなど一体どれだけあるのだろう。
「なのに……」
幼い自分が後どれくらい生きるにしろ、人生の初めからこんなにもこの世が偽善と裏切りに満ちているのなら将来なんて来なければいいとすら思う。
「……なのに」
アンにとっての唯一の本当は、手のひらで数えられるくらいわずかしかない。
嘘ばかりの世界の中で確かに光り輝くもの。
それさえあれば、どんな怖いことでもたえられる。
「それ、なのに」
――お母さんさえいてくれるなら、ほかになにもいらなかったのに。
「それなのに、お母さんはわたしをいちばんに愛してくれないのよ!」
大声を出したアンの唇に、ヴァイオレットが目にも止まらぬ速さで人差し指を押し当てた。
アンの体が一度大きく震える。
ぴたりと止まった声。静かになった廊下では、扉の奥の母のすすり泣きがまだ聞こえていた。
「私に対してならいくらでも怒ってくださって結構です。殴るなり蹴るなり、好きにしてくださって構いません。けれど……貴方の大好きなお母様を悲しませるお言葉は、貴方を守るためにも慎んでください」
厳しい顔つきで言われて、アンの瞳に涙がまた急速に生産される。
「……わたしがいけないの?」
押し殺した泣き声は、幼くて切ない。
「いいえ、貴方が悪いことなど一つもありません」
「……わたしがいやな子だから、お母さんは病気で、あと、すこしで……」
死んでしまうの?
アンの問いにヴァイオレットは静かで、やはりどこか冷ややかなのだが、けして突き放してはいない声音で囁く。
「いいえ」
碧い瞳を、アンの泣き顔に注ぐ。
「いいえ、お嬢様はとてもお優しい方です。病気は関係ありません。それは、誰にも予測できずどうしようも出来ないことなのです。私の腕が機械で、もう貴方のように柔らかい生肌にはならないことと同じくらい、どうしようも出来ないことなのです」
「じゃあ神様のせいなの?」
「もしそうだとしても、そうではないとしても……私達はただ与えられた命をどう生きるか考えることしか出来ません」
「……わたしは、どうしたらいいの?」
「お嬢様は、今はとにかく泣いていていいのです」
私を殴らないのなら、代わりに体をお貸ししてもよろしいですか、とヴァイオレットは腕を広げた。機械の腕が、かすかに音を立てる。
飛び込んで、抱きついてもいいと言っているのだ。そんなことは言わなそうな人なのに。
すがって、泣けと言う。アンはたまらず彼女に抱きついた。
香水をつけているのか、たくさんの花の香りがした。
「……ヴァイオレット、お母さんをわたしからとらないで」
すがりついてヴァイオレットの胸に顔をおしつけ涙を染み込ませながら言う。
「お母さんとわたしとの時間をとらないで、ヴァイオレット」
「あと数日だけ、それをお許しください」
「じゃあせめて手紙を書いているとき、わたしもそばにいて良いってお母さんにいって。なかまはずれでもいいから、ただちかくにいたいの……そばにいて手をぎゅってにぎるだけよ」
「……申し訳ありませんが私の依頼人は奥様であり、アンお嬢様ではありません。それは承り出来かねます」
やっぱり大人なんて、大嫌いだとアンは思った。
「嫌いよ……ヴァイオレット」
「申し訳ありませんお嬢様」
「…………どうして手紙なんて書くの?」
「人は人に届けたい想いがあるからです」
世界の中心が自分ではないことくらい、分かっている。
けれどもアンは思い通りにならない現在に腹が立ってぽろぽろと涙を零す。
「そんなの……とどかなくていい……」
嗚咽を上げながら悔しげに唇を噛むアンを、ヴァイオレットはただ抱きしめた。
「届かなくていい手紙など、ないのですよお嬢様」
どうしてだろう。その台詞はアンへの言葉というよりヴァイオレットが自分に言い聞かせているようにも聞こえた。そのせいかアンの記憶になぜか印象深く刻まれた。
アン・マグノリアがヴァイオレット・エヴァーガーデンと共に過ごした期間はわずか一週間だった。母は何とか手紙を書ききり、ヴァイオレットは契約期間が終わると静かに屋敷を去っていった。
「きけんなところに行くんでしょう?」
「ええ、そこで待っている方がいますから」
「怖くないの?」
「……お客様がお望みならどこでも駆けつける。それが自動手記人形、ヴァイオレット・エヴァーガーデンです」
いつか、自分も手紙を書きたい人が出来たら頼んでもいいかと、尋ねることは出来なかった。
もし、彼女が次の依頼人の場所で死んでしまったら。そうじゃなくても、自分が頼みたい時にこの世にいなかったら。
それを考えると、聞けなかった。
ヴァイオレットは見送りの時に一度だけ振り返って手を振ってくれた。
母の病気が悪化したのはヴァイオレットが屋敷から去って数カ月後。あっけなく逝った。
最後を看取ったのはアンとメイドだった。
目を瞑る最後の瞬間まで、アンは母に愛してると、囁き続け。
母はただゆっくり、「うん、うん」と頷いた。
静かな春の、穏やかな日に最愛の人は亡くなった。
それからのアンは多忙を極めた。
財産に関しては成人するまで弁護士と話し合いのもと複数の銀行に凍結することにし、屋敷に家庭教師を招いて勉学に励んだ。母との記憶が深い土地からは離れがたく、学士の資格は通信教育で取得した。
父とはずっと会っていない。葬式には来たが、言葉は二言三言しか交わさなかった。
母の死後、家を訪れることもなくそれきりだ。お金の無心はぱったりと途絶えている。
どういう心境の変化なのか直接聞けずじまいだが、それで良いと思っている。
アンは勉学の末、在宅の法律相談弁護士の職に就いた。
稼ぎはそれほど多くはないが、メイドももう雇ってはいないし自分の食い扶持だけなら充分だ。度々相談を家に持ちかけてくる若い起業家と小さな恋もしている。
七歳の時に最愛の母を失い、けれどもそこで堕落することも悲しみで道をそれることもなく人生を歩んだ彼女に人は尋ねる。
『どうして貴方は挫けずにいられるの?』と。
アンはそれにこう答える。
「母がいつも見守ってくれるからよ」
アンの母はもちろん既に他界している。その骨は代々先祖が埋められる墓に葬られている。
けれど、アンは言う。
「母は、ずっとずっと、私を正し、私を導いてくれているの。今でも」
笑って彼女がそう言うのには理由があった。
それこそ、ヴァイオレット・エヴァーガーデンと過ごした一週間にすべてが繋がる。
アンが母を亡くしてから初めて迎えた八歳の誕生日。
アンの元に荷物が届いた。
赤いリボンがつけられた大きな熊のぬいぐるみ。
送り主は死んだはずの母からで、プレゼントには手紙が添えてあった。
『八歳の誕生日おめでとう、アン。悲しいことがたくさんあるかもしれない。頑張ることが多くてくじけているかも。でも負けないで。孤独で、寂しくて泣いてしまうこともあるかもしれないけれど忘れないで。お母さんはいつもアンのことを愛しているのよ』
まぎれもない母の字だった。その時、アンの脳裏にヴァイオレット・エヴァーガーデンの姿が浮かんだ。彼女が代筆した手紙の中にこれも混ざっていたのだろうか?
しかしそれだと不自然だ。あの時、母はたくさん手紙を作っていたけれど、すべてヴァイオレットが書いていた。まさかあの自動手記人形は筆跡まで似せて書いたというのか。
驚いて配達した郵便機関に問い合わせると、アンの母とは長期間の契約が結ばれていて、毎年必ずアンの誕生日に郵便を届けることになっていると言う。
そしてそれを書いたのは確かにヴァイオレット・エヴァーガーデンで、彼女を通して書き上げた手紙は全て大切に保管されているとのことだった。
いつまで届くのか、という問いには契約上の秘密として教えてもらえなかったが、その後も手紙は毎年届いた。
十四歳になっても。
『もう立派なレディーね。好きな男の子とか出来たのかしら。貴方は言葉も態度も少し男の子じみてるから気をつけて。恋の相談には乗れないけれど、貴方が悪い男の子につかまらないように私が守るわ。私よりしっかりしてるアンのことだもの。そんなことしなくてもきっと、貴方が選ぶならとても素敵な人よ。愛を恐れないで』
十六歳になっても。
『そろそろ車に乗る頃かしら? お母さんも実は車に乗れるのって言ったら貴方驚く? 昔はよく運転していたのよ。でも周囲の人は止めるのよ。皆青い顔して。誕生日の贈り物は貴方に似合う色の車なの。同封されたキーで動かしてね。でももうクラシックカーになっているかしら? ださいとか言わないでね。貴方が色んな世界を見るのを、お母さん楽しみにしているわ』
十八歳になっても。
『もしかしたらもう結婚していたりするのかしら。どうしましょう。若い奥さんになったら色々大変よ。でも、貴方の子どもならきっと男の子でも女の子でも可愛いわ。お母さんが保証する。子育ては大変なのよって、したり顔で言うつもりはないけれど。貴方が私にされて嬉しかったこと。貴方が私にされて悲しかったこと。それを思い出して接してあげて欲しいわ。大丈夫よ。貴方がどれだけ不安になっても、私がいるわ。傍にいるから。母になっても貴方は私の娘で、たまには弱音を吐いていいのよ。愛してるわ』
二十歳になっても。
『もう二十年も生きたのね。すごいわ! 私から生まれた小さな赤ちゃんがこんなに大きくなるなんて! 生命ってほんとに神秘的。貴方が美しい女性になったところを見られないことが残念。いいえ、でも私は天国で貴方を見守っているはずね。今日も明日も明後日もいつまでも美人よ、私のアン。他の人が貴方を貶しても私は胸を張って言うわ。貴方は美人で最高にクールな女性よ。自信を持って。そして社会への責任もちゃんと全うして生きなさい。貴方がここまで生きてこられたのは色んな人が見守ってくれたからだわ。それは貴方が住む社会の仕組みのおかげでもあるの。貴方は知らない内にたくさん助けられているのよ。これからはそれを返すように、私の分まで働いてね。嘘よ、ごめんなさい。貴方は頑張り屋さんだからこう言うと頑張りすぎちゃうわね。力を抜いて、人生を楽しんで私の愛しい人。大好きよ』
手紙はいつまでも、届き続けた。
母の文字で書かれた言葉は、忘れかけた声さえアンの心の中で再生される。
あの時母が、病をおしても綴っていた想いは全てアン宛てだったのだ。
すべて、すべて。
愛娘に贈る未来のバースデーカード。
つまり当時のアンは自分で自分に、嫉妬していたことになる。
『届かなくて良い手紙など、ないのですよお嬢様』
ヴァイオレットの言葉が、時を超えてアンの耳に響く。
やがて結婚し、子どもが生まれたアンの元にもまだ手紙は届くだろう。
街から外れた辺鄙な土地にぽつんとある大きなお屋敷。
そこに住まう長いウェーブかかった黒髪の持ち主の奥様。
とある月のとある日。必ず朝から外に出て眼下に広がる景色を見渡し待っている。
緑のフロックコートに包まれたポストマンのバイクの音がすると立ち上がって目を輝かせる。
いまかいまかとそわそわと待つ彼女の姿は、きっといつかの母に似ている。
ポストマンが家に到着し、にっこりとした笑顔で大きな贈り物の包みを彼女に渡すだろう。
彼女に毎年送られる贈り物のことを、知っているポストマンは温かい言葉も一緒に届ける。
「誕生日おめでとうございます。奥様」
暗褐色の瞳を、少し潤ませて彼女は答える。
「ありがとう」
そして、ずっとずっと聞いてみたかったことをついに尋ねてみる。
「ねえ、ヴァイオレット・エヴァーガーデンを知っている?」
郵便屋と代筆屋は密接な関係を持っている。もしかしたらと、心臓をどきどきと鳴らしながら聞いたアンに、ポストマンは笑顔のまま答えた。
「ええ、有名ですから。まだまだ現役ですよ」
それでは、と礼をして去るポストマンを見送りながら、アンは贈り物を抱きしめて微笑んだ。
ゆるゆると、涙が、溢れ出る。
微笑みながら、少し泣いた。
――嗚呼、お母さん。今の聞いた?
彼女、まだ自動手記人形をしているって。
同じ時を、過ごした人がまだ元気でいること。そしてあの仕事を続けていること。
それが嬉しい。
とても嬉しいわ、ヴァイオレット・エヴァーガーデン。
屋敷から聞こえる、「お母さん」という声にアンは振り返り声の方を見上げる。
自分が、ヴァイオレットと母を見つめていた窓から娘が手を振っている。
アンに似た、ゆるやかなウェーブをした黒髪の女の子だ。
「おばあちゃんからまたプレゼント来たのー?」
無邪気に笑う娘にアンは頷く。
「ええ、届いたわ!」
快活に返事をして、アンも手を振った。
家ではアンの誕生日パーティーを娘と夫が開こうとしてくれている。
早く中に入らなくては。
そっと涙を拭いながらアンは屋敷へ足を向かわせる。
歩きながら、思う。
――ねぇ、お母さん。
自分がしてもらって嬉しいことを、子どもにしてあげてと言ったわね。
あの言葉、とても嬉しかった。
とても響いた。
そうだなって思った。
だから私もそうするわ。
あの人に会いたい口実なんかじゃないんだから。
少しはそれも理由としてあるけれど。
でもそれだけじゃない。
私も、届けたい想いがあるのよ。
長い年を経て、出会う彼女はきっと変わらないままな気がする。
美しい瞳で、玲瓏な声で、私が綴る娘への愛を書いてくれることでしょう。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンは、そういう女性だわ。期待を裏切らない。
それどころか驚かせる、また仕事を頼みたいと思わせる自動手記人形。
会えたら、恥ずかしがらずに。
ありがとうと、ごめんなさいを言おう。
もう泣くだけしか出来なかった子どもではないのだから。
幼かったあの頃の自分を、抱きしめてくれた彼女をアン・マグノリアはけして忘れない。
わたし、覚えています。
彼女がいたこと。
そこにいて、静かに、手紙を書いていたこと。
わたし、覚えています。
あの人と、微笑う母の姿。
わたし、その光景を、きっと。
死ぬまで忘れないでしょう。
ぜひこの機会に『ヴァイオレット』を読んでみてくださいね!
KAエスマ文庫『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』シリーズ刊行10周年記念企画特設ページ
https://www.kyotoanimation.co.jp/books/violet/special/10th/